「どこかの家にはいったら、まず『平安がこの家にあるように』と言いなさい。 もし平安の子がそこにおれば、あなたがたの祈る平安はその人の上にとどまるであろう。…」 ルカ10章5-6節
序 論)イエス様のもとで訓練されていた弟子たち72人が伝道に遣わされました。(この数は創世記10章(p.10-11)に列挙されている異邦の国々の数と一致するので、将来の異邦人伝道を象徴するとの解釈もあります。)
イエス様が弟子たちを遣わされることによって…
本 論)1 主の平安が届けられる
主イエスの先駆けとしての派遣はエルサレムへの旅において新しく始まったことです。9章のはじめにおける派遣は、神の国を宣べ伝え、病人をいやすためでした。(p.101)
ここ(10章9節)では、神の国が「近づいた」と伝えるという新しい要素が加わっています。これは、主イエスがまもなく来られることを意識した言葉です。主イエスがまもなくこの町に来られる。そのことによって神の国はあなたがたに決定的に近づいている。この主イエスを救い主として受け入れ、お迎えすることによって、神の国、即ち神様の恵みのご支配があなたがたの上に実現します、だから、イエス様をお迎えする準備をしなさい。そのように語るために弟子たちは遣わされました。
イエス様は、弟子たちを狼の群れの中に送り込まれる小羊にたとえられました(3)。また、自分の力、自分の持っているもの、自分で用意した備えによってどうにかしようとするなと言われました(4)。収穫の主である神様があなたがたの前に既に豊かな実りを用意して下さっている。あなたがたを狼の群れの中に送り込んだ神様があなたがたを守り、支え、主イエスによる救いの証人として用いて下さる。その神様の恵みの力にすべてを委ねなさいとイエス様はここ(2-4節)で教えておられます。
「平安があるように」(5)は「シャローム」というユダヤ人が普通に交わす挨拶の言葉です。しかし、この言葉は、主イエスによってもっと大きな意味と力を持つ言葉と成るりました。「平安の子」(6)は、弟子たちが宣べ伝える福音、救い主到来のメッセージを信じ、受け入れ、その「平安(平和)」を内にいただいて生きる者です。
かつてイエス様は弟子たちに「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」 (ヨハネによる福音書14章27節 p.166)と言われました。信仰者の告げる平安が、空しく消えていくただの音声ではなく、現実的に力があり、人々の中に留まり、慰め、支え、生かす言葉となるのです。それは語る私たちの力によるのではありません。主イエス・キリストが、エルサレムにおいて私たちの罪を背負って十字架にかかって死なれ、復活し、天に昇られました。そのことによって実現した神の国、神様の恵みのご支配の中で、私たちに聖霊が与えられ、心に御霊の実、「愛、喜び、平和(平安)、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ人への手紙5章22-23節p.299)を結んでいきます。聖霊の力によって、私たちは力ある言葉、人を励まし、慰める言葉を語る者へと変えられるのです。
2.主の救いの言葉が伝えられる
主イエスの先駆けとして派遣された弟子たちは、迎え入れようとしない町の人々に対して、足についたその町の埃を払い落とす、という仕方で抗議の思いを現し、「しかし、 神の国が近づいたことは、承知しているがよい。」(11)と宣言して出て行く、そのような権威を与えられていました。そのことは12節の主のお言葉にも現されています。
「ソドム」(12)は、かつて硫黄の火によって全滅した背徳の町でした。(創世記19章24節 p.22) 13-15節でイエス様は悔い改めない町々を叱責されます。「コラジン、ベツサイダ」(13)、「カペナウム」(15)はガリラヤの町です。主イエスと弟子たちによって、これらの町では神の国が宣べ伝えられ、奇跡が行われました。
しかし悔い改めてイエス様を受け入れることがありませんでした。それらの町は、あのソドムと同じように神様の怒りを受けると宣言されています(12)。「ツロとシドン」(13)は、現在のレバノンの首都ベイルートの南方の町です。(外国人(ユダヤ民族以外の人々)でさえ、神の前に悔い改めたであろうと言われたのは、悔い改めないユダヤの人々に対する叱責の言葉)
このようにイエス様が地上におられたときの宣教の働きは困難と苦難の連続でした。そして、イエス様の地上での最期は十字架の死でした。しかし、イエス様の十字架の死は、私たちの罪の罰を身代わりとなって受ける贖いの死でした。それによって全ての人が罪から救われる道が開かれたのです。父なる神様は、御子イエス様を復活させられました。そして、昇天されたイエス様は、今も信じる者に聖霊を与えて下さいます。
聖書が「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救いの日である。」(Ⅱコリント6章2節 p.283)と告げているように、今は、イエス様を信じる人は誰でも罪から救われ、永遠の命に生かされる恵みのときです。私たちは、皆、神様から愛され、イエス様から「わたしのもとに来なさい」と招かれている一人一人なのです。(マタイによる福音書11章28節 p.17)
結論)神様の救いにあずかるか、それとも裁きを受けるか、を分けるような働きを、主イエスから遣わされる弟子たちは委ねられています(16節)。私たちの語る言葉が、主イエスのお言葉と、さらに主イエスをお遣わしになった父なる神様のお言葉と重ね合わされています。そんな大それたことはあり得ない、私たちにはそのような権威ある言葉を語ることなどできるはずがない、と私たちは思ってしまいます。しかし、神様が豊かな恵みの御力を発揮され、主イエスの十字架と復活と昇天による救いを実現して下さり、私たちを実りを刈り入れる収穫のための働き手として派遣して下さることを信じるなら、私たちは、私たちを通して神様が語って下さり、私たちを通して主イエスの恵みのみわざが行われるという驚くべき出来事を体験していくのです。今、主イエスによって遣わされ、置かれている所で、家族、親族、友人、知人、地域の人たちの救いのために祈り、仕えていきましょう。神様は私たちの小さな祈りや愛のわざをも覚え、大きく応え、報いて下さるお方です。聖霊の力により頼んで、祈りに応えて下さる愛の神様と救い主イエス様を証しし、み言葉を宣べ伝えてまいりましょう。