マタイによる福音書章11章28~30節

「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。」
   マタイ11章28節

序 論)イエス様は弟子たちと共に、ユダヤの町々を回り福音を伝えられました。多くの人々は、イエス様のお話を聞いても悔い改めませんでした(11章21節)。宗教指導者たちは、洗礼者ヨハネやイエス様に反発し、非難しました(11章19節)。
そのような中でも、イエス様を信じる人たちが起こされ、イエス様は、父なる神様に感謝の祈りをささげられます。その後、人々に語られた言葉は…

本 論)1.わたしのもとに来なさい
     律法によって自分の罪を自覚し、罪の重荷に苦しんでいる人々に対して、イエス様は
「わたしのもとに来なさい。…」(28)と招かれました。イエス様は、約2000年前に、この地上に生きられた方です。でも、今は、目に見える姿で地上におられるわけではありません。聖書は、キリストは十字架にかかられて死に、三日目に復活し、40日後に天に昇られ、今は天におられると語っています。では、どうしたら私たちはこのイエス様のもとに行くことができるのでしょう。このマタイの福音書の一番最後のところで、イエス様は「見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(28章20節 p.50)と約束して下さいました。天に昇られ、父なる神様から天と地の権威を与えられた イエス様は、聖霊によっていつも私たちと共にいて下さいます。聖書のみ言葉を求め、
イエス様に心を向け、父なる神様に祈るとき、私たちはイエス様のもとに行っているのです。 私たちは、いろいろな場所に行ったり、気晴らしによって罪の重荷から解放されよとし、心の疲れを癒そうとします。しかし、それらは一時的なものです。イエス様のもとに行くことだけが、罪から解放される道です。十字架にかかり、復活されたイエス様だけが、「罪を赦す権威」を持っておられます。イエス様に罪を告白し、罪の赦しをいただくとき、罪の重荷と心の疲れがぬぐい去られます。
「もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」(ヨハネの第一の手紙1章9節 p.376)

2.わたしに学びなさい
  わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。」(29節)
  キリストの謙遜とは、神が私たち人間のために、天の栄光を捨ててこの地上に降られ、私たちと同じ人間になって下さったことです。そしてこの柔和さも謙遜も、一つのことに集約しています。それは主イエスの十字架の死です。イエス様は私たちの罪をご自分の身に背負って、私たちたちの身代わりとなって、十字架にかかって死んで下さいました。このキリストの謙遜によって、私たちは罪を赦されて新しく生きることができるのです。
「くびき」は二頭の家畜を並べてつなぎ、農作業をさせる時に使われる道具です。「わたし(イエス様)のくびきを負う」とは、イエス様と共に歩んでいくことです。そして「わたしに(イエス様)に学ぶ」とは、イエス様をお手本として、みならって生きることです。聖書のみ言葉から、主イエスに学びましょう。柔和で謙遜なお方である、イエス・キリストと共に歩むところには、まことの安らぎがあります。主と共に歩むとき私たちに本当の休みが与えられ、リフレッシュされて、自分に委ねられている荷をしっかりと負って生きていく新しい力を与えられます。
イエス様は「わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(30)と言われます。主イエスは、私より先に、くびきを負い、重荷を負って十字架への道を歩んで下さいました。イエス様と共に負うから私たちの荷は軽いのです。主が共に負って下さるから、私たちの方に重くのしかかっている荷が軽くなります。あるいはキリストが私たちの重荷を取り除いて下さり、代わりに軽い荷を背負わせて下さいます。
私たちの方から重荷がなくなってしまうわけではありません。くびきを負うからには、自分の思い通りに生きるわけにはいかないのです。イエス・キリストを信じ、従って いく信仰の歩みは、確かにあるくびきを負い、荷を負って歩むことです。しかし、それは負いやすいくびき、軽い荷です。逆に私たちがキリストのくびきを負うことを拒み、あくまでも、自分の思い通りに生きようとすると、そこでは自分の人生の全ての荷を自分一人で背負うことになってしまいます。そこにあるのは、疲れ果て、重荷にあえぎつつ、しかも休むこともできないという歩みになるのではないでしょうか。
イエス様は、私たちの重荷を共に担うことを願っておられます。重荷をイエス様のもとにおろし、休んでからイエス様と共に歩んでいきましょう。

結論)  「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
イエス様は今も、私たちにこう呼びかけ、招いておられます。主イエスのもとに行って、まことのやすらぎと平安をいただきましょう。主イエスに学ぶ、すなわち主イエスと共に歩むことは、教会において礼拝を守り、日々聖書を通して主イエスのみ言葉を常に新たに聞きながら、それに従って生活することです。そして礼拝は、私たちが、柔和で謙遜なお方であるイエス様とお出会いする場です。そこで私たちはキリストから学ぶ弟子となって共に歩みます。主イエスと共に歩むところにこそ、まことの安らぎがあります。 日々の生活の中で様々な重荷を負ってあえいでいる私たちであり、この世界ですが、その中で私たちは礼拝を守りつつ、主イエスに学び共に歩んでまいりましょう。