「だれでもこの幼な子をわたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。…」 ルカ9章48節
序 論)イエス様は、弟子たちに二度目の受難予告をされます(44)(一度目は9章21-22
節)。しかし、彼らにはその意味が理解できませんでした。さらに、彼らは主イエスに対する無理解を示してしまいます(46、49)。
主イエスが彼らに言われたことは…
本 論)1.いちばん小さい者こそ…
弟子たちの間で、自分たちのうち誰が一番偉いか、という議論が起こりました。イエス様は、「彼らの心の思いを見抜き」、一人の幼な子をご自分のそばに立たせられました。 当時の社会では、「幼な子」、「子ども」は、今のように価値ある大切な存在ではなく、無価値な、一人の人間として受け入れるに足りない、軽んじられる存在だと思われていました。主イエスは、弟子たちに、無価値な存在として軽んじられている者を受け入れることを求められました。(48) それが主イエスを受け入れることであり、主イエスをお遣わしになった父なる神様を受け入れることになるのです。誰が一番偉いか、誰が重んじられ、中心となるべきか、という争いが起こって来る原因には、小さな一人の人を受け入れようとしない思いがあります。弟子たちの、そして私たちの心の中に、共に歩んでいる人たちの中に序列をつけ、ある人は受け入れ、ある人は受け入れようとしない、という思いがある限り、「誰が一番偉いか」という議論は際限なく起こってきます。イエス様は、軽んじられている子供を受け入れることを求めることによって、この議論の背後にある私たちの心の根本的な問題に気づかせようとしておられるのです。
「いちばん小さい者」(48)とは「幼な子」に代表される、小さな、軽んじられているような人のことです。そういう人を受け入れ、仲間として大切にすることを主イエスは求めておられます。その人が「大きい」とは、最も小さい者こそ受け入れられ、重んじられるべきなのです。主イエスのこの教えを受けて、弟子たちがそして私たちが取るべき道は、最も偉い者になろうとすることではなくて、最も小さい者を受け入れる者となることです。
イエス様は、ただ小さな者を受け入れなさいと言われたのではなく、「わたしの名のゆえに」と言われました。この言葉は、44節の受難予告でなされた「主の十字架の死」と関連付けて語られています。人々の手に渡され、苦しみを受け、十字架につけられて死なれるお方、主イエスに従い、弟子として歩む道は、主イエスの名のゆえに小さな、軽んじられているような人々を受け入れる道でもあります。
なぜなら、主イエスが受けて下さった苦しみと十字架の死は、神様が、まさに受け入れ難い罪人である私たちを受け入れて下さった出来事だからです。私たちはかつて神様に背き逆らい、その御名を汚している者でした。私たちは、無価値な、受け入れるに足りない者として、神様に軽んじられ、捨てられても当然の者でした。しかし神様はそのような私たちを愛して下さり、私たちの罪を赦し、ご自分の子として下さるために、独り子イエス様を遣わして下さいました。そして主の十字架の死と復活によって私たちを受け入れて下さったのです。その主イエスのよる罪の赦しの恵みを受け、主イエスに従っていくのがキリスト者です。私たちの歩みは、主イエスのみ名のゆえに小さな、軽んじられ、軽蔑されているような人を受け入れ、仲間として大切にするという歩みです。
2.あなたがたに反対しない者は…
弟子のヨハネは主イエスの名によって悪霊を追い出している人を見ました。しかし、彼はその人が「わたしたちの仲間でないので」その業をやめさせました。自分たちと一 緒に行動しないことが許せなかったのです。しかし、主イエスは、ヨハネをたしなめて、「やめさせないがよい。…」(50)と言われました。私たちも自らの信仰の良心に基づいて主イエスに従っている人たちの歩みに対して、それは間違っているとか、あれはキリストに従っていない、などと言って反対してはいけません。私たちとは違う仕方でキリストに従っている人々の存在を私たちは認め、受け入れるべきです。2000年の教会の歴史に比べれば短いですが約160年の日本のプロテスタント宣教においても、様々な教派が生まれ、多くのキリスト教に基づく学校が建てられ、信仰に基づく様々な社会事業が行われてきました。それらは幅広い影響を日本の社会に与えています。それらはどれも、それぞれ違った仕方で主イエスに従い、そのみ栄えを現している働きです。
46節には弟子たちの高ぶりの罪、49節には他の人の在り方を受け入れない彼らの狭量が現れています。イエス様は「主の名によって」歩む者同士の分派抗争を厳しく戒められたのです。
結論)キリストが伝えられ、福音の前進に役立つこと、御国の拡大につながる働き、奉仕、活動をしている限り、私たちは互いの違いを認めあい、協力していくことが必要です。私たちはそれぞれが、神様の恵みに応え、自分の信仰の良心に基づいて、神様が自分に与えて下さったと信じる働きを担い、行っていきます。私のあり方と人のあり方は違うということが当然そこには起こってきます。そこで、どちらがより大事だとか、重んじられるべきだという序列をつけ始めるなら、「だれが一番偉いだろうか」という思いに支配されていきます。
イエス様が弟子たちに、そして私たちに求めておられるのは、自分とは違う仕方で
主イエスに従い、仕えている人の存在を受け入れることです。「反対しない者は味方である」というみ言葉を心に留めましょう。その根本にあるのは、私たちは十字架にかかって死んで下さることによって私たちの罪を赦して下さった主イエスを信じ、従う者だということです。受け入れ難い罪人であった私たちを受け入れて下さった神様の恵みに生きる私たちは、同じ主イエスによって神様が受け入れて下さった人々を、受け入れて、大切な仲間として共に歩むのです。