イエスは彼に言われた、「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。 その子の父親はすぐ叫んで言った、「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。 マルコ9章23-24節(並行箇所)
序 論)山の上で主イエスが三人の弟子たちに栄光の御姿を示された翌日、主と三人の弟子たちが山を降りて来られました。すると山の麓では、別の出来事が起こっていました。主が言われ、なされたことは…
本 論)1.不信仰な、曲った世に主は来て下さった
山麓では、他の九人の弟子たちが苦境に陥っていました。彼らは、霊につかれた子どもを癒せなかったのです(38 -40)。
父親の言葉を聞いた主イエスは、「ああ、なんという不信仰な、曲った時代であろう。」(41)と嘆かれました。(申命記32章5節 p.294、民数記14章27節p.205 参照 イスラエルの不信に対する主なる神様の悲しみのお言葉)主イエスを信じて従って来たはずの弟子たちでさえも、不信仰に陥っていました。神様の力を祈り求めることをせず、自分の力で何かをすることができるような錯覚に陥り、結局、悪霊を追い出すことができませんでした。彼らの不信仰をも主イエスは嘆かれたのです。
「いつまで、わたしはあなたがたと一緒におられようか、またあなたがたに我慢ができようか。」(41)という言葉を聞くとここで主イエスは弟子たちに対して愛想が尽きてしまわれたのだと受け止めてしまうかもしれません。でも原文を見ると「いつまで私はあなた方と共におり、あなたがたを我慢するのだろうか。」と単純な疑問文のみ言葉です。そしてその後、「あなたの子をここに連れてきなさい」と父親に言われ、弟子たちが癒すことのできなかった子どもを招かれました。イエス様は霊を叱り、追い出し、子どもを癒して父親にお返しになりました。これは、イエス様が弟子たちをお怒りになってなさったわざではありません。
つまり弟子たちの醜態、失敗の後始末を主イエスがなさって下さり、苦しみ、絶望の中にいたこの父親に救いの御手を差し伸べて、子どもを返して下さったのです。主がなされたことと上記のみ言葉の直訳を合わせて見つめるならば、主イエスがいつまで弟子たちと、そして私たちと共にいて下さり、どこまで私たちのことを忍耐して下さろうとしているのか、その答えがそこに見えてきます。イエス様は、このような失敗ばかりしてしまう弟子たちや私たちのことを、どこまでも忍耐して下さり、共にいて下さり、私たちの失敗や罪を覆って救いのみわざを行って下さるのです。私たちは自分の確かさや信仰ではなく、主イエスの確かさと真実によって支えられています。神様から心が離れ、心が神様に向かわない不信仰で曲がった「罪の世」から私たちを救うためにイエス様はこの地上に来て下さいました。主の十字架の死と復活による救いのみわざがなされた後にペテロは、人々に説教し、「この曲がった世から救われよ。」と語りました。(使徒行伝2章40節 p.182)神様は、今も私たちが悔い改めて神様に立ち返り、主イエスを信じて罪から救われることを願い忍耐しておられるのです。
「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」(Ⅱペテロの手紙3章9節 p.374)
2.小さな信仰をも主は受け止めて下さる
「山上の栄光と山麓の悲惨」、このようなコントラスト(対比)を私たちも信仰の歩みの中で体験します。主の日の礼拝や 聖会、集会等の中で、神様の恵みに満たされるとき、私たちは変貌の山におけるペテロと同じように、この恵みのときがいつまでも続けばいいのに、と思います。(ルカ9章33節 p.102) しかし、それらの集会からそれぞれの家に帰って日常の生活を始めると、そこで直面するのは、信仰者としての自分の無力さや現実です。私たちの信仰の生活は、変貌の山上の礼拝と、そこから降りて来る山麓の現実の間を行ったり来たりしつつ営まれていると言えます。
では、そのような現実の中で歩んでいる私たちの信仰を主イエスはどのように受け止めて下さるのでしょう。同じ山麓の出来事を告げるマルコによる福音書9章22-24節には、主イエスと父親のやりとりの言葉が告げられています。(p.66)
父親は、イエス様のみ言葉をいただいて、自分の不信仰を認め、さらに主に救いを求めていきました。私たちも日常の出来事や現実に左右され、すぐ疑ってしまったり不信 仰に陥りやすいものです。でも、その自分の信仰のなさや弱さを認めて、さらに主イエスに求めていくとき、主はさらに大きな恵みをもって応えて下さいます。私たちの「からし種」のような小さな信仰をも主は受け止め応えて下さいます。(マタイ17章20節 p.28)
結論)主イエスのみ言葉と聖霊によって、私たちは日々新たにされます。み言葉によって示されるのは、神様の独り子イエス・キリストが、私たちの罪をどこまでも背負って下さり、赦しの恵みによって私たちを支え、いつもでも共にいて下さることです。その恵みによって私たちは新しくされていきます。悔い改めとへりくだりの心をもってみ言葉を求めていくとき、神様はそれまで隠されていたみ言葉を私たちに示し与えて下さいます。そして詩篇の言葉が告げているように「御言葉が開かれると光が射し出で、無知な者にも理解を与えます。」(詩篇119篇130節 新共同訳)み言葉が新たに示されるとき、私たちはその光に照らされ、人間の思いや力によってはとうてい得ることができない神様の確かな恵みを知り、その恵みの中を歩む者へと変えられていきます。