彼がこう言っている間に、雲がわき起って彼らをおおいはじめた。そしてその雲に囲まれたとき、彼らは恐れた。 すると雲の中から声があった、「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け」。 ルカ9: 34-35
序 論)イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子だけを連れて山に登られました。主が祈っておられるとそこで、光輝くみ姿に変貌されました。この出来事が示していることと、神様が弟子たちに語られたことは…
本 論)1.主イエスの栄光の御姿
ここで神様の独り子、救い主キリストとしての、主イエス本来の栄光が弟子たちに示されたのです。この栄光の御姿は、ベツレヘムの家畜小屋にお生まれになり、十字架で 死なれるに至る主イエスの地上の歩みにおいては隠されていました。しかしこの栄光に輝く御姿こそ、主イエスの本当の御姿です。このことが、一時、三人の弟子たちにのみ示されました。主イエスと共に、二人の人が同じく栄光に包まれて現れ、主と共に語り合っているのを弟子たちは見ました。その二人とはモーセとエリヤでした。モーセとエリヤは、それぞれ、旧約聖書の「律法」と「預言者」を代表する人たちで二人が主イエスの前に現れたことは、旧約の時代が終わり、新約の時代が始まることの表われでした。そして、主イエスと二人は、「イエスがエルサレムで遂げようとする最後のことについて」(31)話していました。「最後」と訳されているのは、「エクソドス」(英語では exodus)という言葉です。これは、「外へ出る、脱出」という意味です。「出エジプト記」のことを英語で「エクソダス」と言います。イエス様はエルサレムで、この「脱出」を成し遂げられました。それは、十字架の死と三日目の復活、そして天に昇られたことによってです。これらのことによって主イエスは、この地上を出て、父なる神様のもとへ帰られたのです。そして、そのことによって、私たちのための「出エジプト」、罪の奴隷状態からの解放、罪 の赦しによる救いのみ業を成し遂げて下さったのです。この主イエスの十字架と復活と昇天によって成し遂げられた救いこそが、旧新約聖書全体の中心主題、聖書全体を貫いているテーマです。モーセの律法も、エリヤに代表される預言者も、この主イエスによる救いを指し示し、預言しているのです。私たちは、この主イエスの救い、福音を中心に旧約と新約聖書を読みます。
2.主イエスに目を向け、聞き従う
ペテロは、栄光に輝く主イエスの御姿と、モーセとエリヤが主と共にいる、この素晴らしい出来事を、いつまでもここに留めておきたいと願ったのです。三人のために小屋 を三つ建てて、そこに入ってもらおう。そうすれば、これからも、人々が彼らの姿を見ることができると思いました。 (33節)しかし、栄光の御姿が雲に包まれていく中で、神様の御声が響きました。「これはわたしの子、わたしの選んだ者である。これに聞け。」(35) その御声が響いたとき、そこには主イエスだけがおられました(36)。つまり「これ」 というのは主イエスのことです。「主イエスこそわたしの子、選ばれた者だ。このイエスにこそ聞け。」と神様は仰たのです。ここに、「いったい、このかたはだれだろう。」(ルカ8章25節 p.99)という問いへの決定的な答えが、神様ご自身によって与えられました。主イエスこそ、栄光に輝く神の独り子、神様が選び、遣わして下さった救い主です。 主イエスの問いに答えてペテロが告白した信仰を、神様ご自身がその通りだと受け入れて下さったのです。(ルカ9章20節 p.102)
主の栄光に触れるために神様が私たちに求めておられるのは、「主イエスに聞きなさい。」ということです。イエス様の言われることだけを聞きなさいとも受け取れますし、 いつも主イエスの言葉を聞きなさいという意味も含まれています。
聖書を通して、主イエス・キリストに聞くこと、そのみ言葉に耳を傾け、従っていくこと、そのことの中でこそ、私たちは、主イエスとお出会いすることができるのです。 イエス様は、多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから捨てられ、また殺され、三日目に復活された御方です。(22) その主イエスに聞き従うとき、私たちの歩みも、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って従っていくことになります。(23)
主イエスに従って歩む信仰の人生は、決して祝福と喜びのみに満ちた栄光ある人生ではありません。しかし、主イエスに聞き従っていくことによって、私たちは、弱く罪深 い私たちをご自身の十字架の死によって赦し、神の民として新しく生かして下さるまことの救い主イエス様と新たに出会い、このお方と共に生きることができるのです。そし て、この信仰の歩みの後には、私たちにも栄光に輝く復活と永遠の命が約束されています。 変貌の山上で三人の弟子たちが垣間見た主イエスの栄光に輝く御姿は、その約束が確かであることを証ししているのです。
結論)ペテロはこのときの出来事を生涯忘れませんでした。(Ⅱペテロの手紙1章16-18 p.372)私たちはいろいろなことで悩んだり、心が苦しいときもありますが、そんなときこそ、神様に祈り、イエス様のみ言葉、聖書の言葉に耳を傾けるときを持ちましょう。主はみ言葉によって私たちを励まし、力を与えて下さいます。 「そして声が止んだとき、イエスがひとりだけになっておられた。」(8)とあるように、最後に残られたのは主イエスだけでした。私たちはイエス様から目を離さず、聞き従って歩みましょう。神様はイエス様を信じる私たち一人一人をも「わたしの愛する子」と呼んで下さっています。