ルカによる福音書9章18~27節

彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。ペテロが答えて言った、「神のキリストです」。 ルカ9: 20

序 論)イエス様が弟子たちに、人々がご自身のことをだれと言っているかと尋ねられます。弟子たちの答えを聞いて、今度は弟子たちに、「…、あなたがたはわたしをだれと言うか。」(20)とお尋ねになりました。それに対してペテロが答えたことと主イエスが弟子たちに命じられたことは…

本 論)1.神のキリストです
  ペテロは、「神のキリストです」と信仰告白しました。これは、父なる神が遣わされた救い主という意味です。この信仰告白の前に、主イエスは一人で祈っておられました(18)。イエス様は、弟子たちに問う前に父なる神様に真剣に祈られ、準備をなさったのです。ペテロの信仰告白は、主イエスご自身のこのとりなしの祈りによって与えられたのです。マタイによる福音書では、次のように言われます。「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。」(マタイによる福音書16章17節 p.26)   私たちにおいてもそれは同じです。「あなたはわたしをだれと言うか」という主イエスの問いかけの背後には、主ご自身の私たちのためのとりなしの祈りと愛があるのです。そして父なる神様が、私たちを、イエス様に対して「あなたこそ、キリスト、私の救い主です。」という信仰告白にへと導いて下さいました。そして、「人の子」とは主イエスが、ご自分のことを語られるときに使われる言葉です。それは、神の御子が人となられたこと、そして、人となられたイエス様は、やがて、天に挙げられる(昇天される)栄光の主であることを示しています。
「わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。」   (ダニエル書7章13-14節 p.1254)
主イエスは、私たちのために多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて十字架につけられ、三日目に復活することを通して、救いを実現して下さるお方です。「神のキリスト」という言葉には、神様のご意志とご計画がこの主の受難と復活によって実現する、という意味も込められています。

2.日々自分の十字架を負って主に従う
  イエス様に対して、信仰告白した者は、主イエスに従う者とされます。自分を捨て、日々自分の十字架を背負っていくこと、それは大変なことだ、そんなこと自分にはとてもできそうにないと私たちは思うかもしれません。けれども主イエスは「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」(24) と言われます。つまり自分を捨て、十字架を背負って主イエスに従うことは本当の意味で自分の命を救うことなのです。主に従うことを通して、私たちは主イエスの十字架の死によって自分の罪が赦されていることを知り、主イエスの復活によって自分にも死に勝利する新しい命の約束が与えられていることをさらに知っていきます。この新しい命を 得ることは、全世界を手に入れるよりも価値のあることなのです。主イエスは、「よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」(27)と仰いました。あなたがたの中には、生きている間に神の国を見ることができる者がいる、という主イエスの約束、祝福の言葉です。
私たちも、主イエスに従う歩みの中で、主の十字架と復活によって実現している神様の恵みのご支配、神の国を確かに見るのです。教会は神の国の雛形です。教会では神の言葉が語られ、それが聴かれています。神の国の姿がそこには映し出されています。聖餐の食卓は、神の国の食卓の象徴です。そして、同じ信仰に生かされている者が、共に神様に祈っています。この交わりにも神の国が見られます。
主イエスは、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」(ルカ17章21節 p.119)と言われました。私たちの間に、この教会に神の国がすでに実現しています。

結論)信仰告白した、バルヨナ・シモン(ペテロのもとの名前)に対して、イエス様は、こう言われます。そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」     (マタイ16章18節 p.26)
イエス様を、キリスト(救い主)と信仰告白するその土台(岩)の上に教会を建てると主は言われました。そして、この岩は、キリストでもあります。(Ⅰコリント人への手紙3章10節  p.259 10章4節  p.267)この土台は決して揺らぐことはありません。
教会は主イエスを救い主と信じる者たちによって建てられていきます。十字架にかかられ、復活されたイエス様によって生かされている信仰者たちがここにいます。もはやそれ以前の古い自分ではなく、新しい人として生かされています。死を乗り越えることができる力がこのお方にはあるからです。その力をいただいて、私たちも、主イエスのために日々を歩みます。主イエスの十字架と復活によって、この世界も、教会も、私たちも新たにされていきます。