ルカによる福音書9章7~17節

「イエスは五つのパンと二ひきの魚とを手に取り、天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせた。」 ルカ9: 16

序 論)領主ヘロデは、イエス様の行っておられる奇跡のことについて聞いたとき、当惑しました。彼はイエス様に会いたいと思いました。一方、主イエスは弟子たちを連れてベツサイダに行かれます。イエス様は…

本 論)1.5000人以上の人々に食物を与えられた
  イエス様は、み言葉を求め、病の癒しを求めてやって来た人々にみ言葉を語り、癒しをなさいました。やがて日が傾いてきたとき、弟子たちは、群衆を解散させて、それぞれ自分で夕食を確保させて下さいと言います(12)。彼らに対してイエス様は、「あなたがたの手で食物をやりなさい。」と仰いました。弟子たちは、「わたしたちにはパン五つと魚二ひきしかありません、…」と答えます(13)。
イエス様はそれらを手に取られ、「天を仰いでそれを祝福してさき、弟子たちにわたして群衆に配らせ」なさいました(14)。「それを祝福してさき」は新共同訳聖書では、「それらのために賛美の祈りを唱え」と訳されています。
イエス様は、日々の食物を与えて下さる、父なる神様を讃美し、感謝の祈りをささげられたのです。(本日の交読文 詩篇136篇25-26節 p.870 を参照) (参考:英語の say a blessing は「食前の祈りをする」の意味)当時、この祈りをささげるのは、家長の役目です。ここでイエス様は、草の上に座ったイスラエルの人々の家長として天を仰ぎ、祈りをささげられたのです。
この後、イエス様は、5000人を超える人々の飢えを満たし、満腹にされるという恵みのみわざを行われました。
このとき、人々を組にして座らせたのも、パンと魚を配ったのも、後でパン屑を集めたのも弟子たちでした。このようにイエス様は弟子たちを用い、派遣し、みわざをなされていかれます。
初め、彼らが持っていたものは、小さく、わずかなものでありましたが、イエス様がそれらを多くの人々を養い、育んで下さる恵みの食物として下さいました。また彼ら自身は何の力もない者たちなのに、主イエスは彼らを多くの人々を養う恵みの食事の給仕者として用いて下さいました。弟子たちは、この奇跡のみわざを通して、イエス様が神の力を持ったお方であることを再度、知らされました。無限の供給者であるイエス様は、今も私たちを通して、恵みのみわざを行って下さいます。

2.すべての人のためにご自身を与えられた
  このパンの奇跡の後、イエス様を王にしようとする人々もいました(ヨハネ6章15節 p.145) しかし、イエス様は山に退かれます。イエス様が本当に与えようと願っておられたものは食物のパンではありませんでした。パンと魚を「さき、」(16)の個所から、故小島伊助師は、『さき』て与えては、一年後の予表ともなる。」と霊想しておられます。このときから一年後、エルサレムにおられたイエス様は、十字架にかかられます。そして、ご自分の御体が、十字架の上で裂かれました。神様の御子イエス・キリストは、私たちを罪から救い、永遠の命に生かすためにご自身をささげて下さったのです。
イエス様は「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。」(ヨハネによる福音書6章35節p.146)と言われ、ご自身をパンにたとえられました。ベツサイダの奇跡のパン以上のパン、罪の中に死んでいた者を生かして下さる「命のパン」であるお方が、このとき、地上に来られ、人々の目の前におられたのです。しかし、そのことに気づいた人はごくわずかな人たちでした。
イエス様は、今も私たちがご自身を信じ、心に受け入れることを願っておられます。聖餐式でパンとぶどう酒(汁)をいただくことは、イエス様を信じ、心に受け入れ、罪赦され、永遠の命に生かされている恵みをさらに覚えるときです。
「人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。 」(ヨハネ6章53-54節 p.146)

結論)先に登場したヘロデは、聖書の中で「罪人の代表」とも言える人物の一人です。「この人は、いったい、だれなのだろう。」(「いったい、何者だろう。」(新共同訳))という問いと、「イエスに会ってみよう」と言う願い(9)は、私たちの問いでもあり、願いでもあります。私たちは真の神様に出会い、イエス様を知るまでは本当に心が満たされるということがありません。私たちは、今、聖書を通して、「主イエスとは何者か」、「どのようなお方か」を知ることができるのです。
弟子たちは、イエス様とお出会いし、従う者となり、主イエスと共に歩みました。その中でいろいろな失敗や間違いを犯すようなことがあっても、それらを赦し、正してくださり、さらに支えて下さる主のご愛を示されました。そして彼らの信仰は強められ、成長していきました。イエス様を信じ、従っていく信仰の歩みの中で、私たちも同じことを体験していきます。その体験の中で、イエス様はどのようなお方かをさらに深く示され、このお方によって養われ、育まれ、支えられていることを深く知っていきます。
主イエスのご愛と恵みをさらに深く知らせていただきましょう。