「イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。
…イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい」。」 ヨハネ21: 17
序 論)復活されたイエス様は、ガリラヤ湖畔で、弟子たちといっしょに食事をされました。その後、イエス様は弟子のペテロに語りかけられました。そして、ペテロはどのように応えたのでしょう。
本 論)1.わたしを愛するか
イエス様は、ペテロに、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか。」と尋ねられました。以前のペテロは、弟子たちの中で自分が一番、主イエスを愛していると自負し、そのことを誇っていました。 (マタイによる福音書26章33節 p.44ヨハネによる福音書13章37節 p.164)
しかし、イエス様が捕らえられたとき、ペテロは三度も主を知らないと否定してしまいます。絶望の中で、苦しんでいたペテロを立ち直らせるために三度、「わたしを愛するか」と問われました。ペテロはこう答えました。「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存知です。」(15) 以前のペテロとは違い、遠回しな答え方です。では、彼はなぜ、「はい、愛します。」と答えることができなかったのでしょう。それは以前、イエス様に「どんなことがあっても従います。」と自信を持って告白したのに、いとも簡単に否定してしまったからでした。かつてのように「はい、自分は他の仲間たち以上に、あなたを愛します。」と宣言することは到底できなかったのです。
けれども、ペテロのイエス様を愛するという思いが偽りでないこともまた事実でした。そんなペテロの正直で謙遜な思いをイエス様が、彼の内から引き出して下さったのです。
私たちも、時にはイエス様から心が離れたり、他の人をねたんだり、敵対する気持ちを持ってしまうことがあります。しかし、そのような罪をも赦し、私たちをもろもろの罪から解放するために主は十字架にかかって下さいました。自分の罪を示されたときは、神様の前に悔い改め、十字架にかかられたイエス様を仰ぎましょう。
次にイエス様は、ペテロに「わたしの羊を飼いなさい、養いなさい。」(15-17節)と言われました。かつて、イエス様は「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のため に命を捨てる。」と言われました(ヨハネによる福音書10章11節 p.128) この言葉の通り、イエス様は羊である私たち一人一人を罪による滅びから救うために命を捨てられました。イエス様が弟子たちの羊飼いとなられたように、ぺテロたちも、教会に加わる人たちの「羊飼い」となりなさい、と言われました。
自らの失敗に打ちのめされたこととそれを謙虚に受け止め、そこから一方的なイエス様の愛と赦しによって回復させられ、立ち直ったこと。これらの経験を、ペテロが後に 教会に加えられる人たちに主への喜びと感謝をもって証ししたことでしょう。彼の証しは人々にとって大きな慰め、励ましとなりました。
教会の歴史は、ペテロや他の弟子たちによってイエス様の十字架と復活が証言され、罪の赦しと命の福音が語り継がれることによって造られてきました。そして、イエス様が「わたしの羊」と言われたように、教会に集められた私たちは、皆、イエス様に属する羊です。私たちは羊のように一人一人は弱い者です。ですから私たちは、教会に共に集い、礼拝し、聖書を読み、分かち合います。そうすることによって新たに主からの励ましや慰めをいただき、傷ついた心もいやされ強められて新たに出発することができます。このように私たちは共に主によって養われ、育まれていきます。
2.わたしに従いなさい
イエス様を愛し、従って歩んで行こうとするペテロに対して、イエス様は「あなたの生涯には苦しいことが続く。そして最後には私と同じように刑場に連れていかれ、十字架にかけられる、そのようなことが待ち受けているのだ」と言われます。(18-19節)そして、それでも「わたしに従ってきなさい」と言われました。そのときペテロが振り返ると、イエス様の愛しておられた弟子、ヨハネが後からついてくるのを見ました。ペテロはヨハネのことが気になりました。「主よ、この人はどうなのですか。」 するとイエス様は、「… あなたは、わたしに従って来なさい。」と答えられました。弱かったペテロも、主イエスが共におられることによって変えられ、強められ、どんな逆境も主に信頼して乗り越え、死さえも恐れず進むことができました。ぺテロの最期は、十字架にかかっての殉教でした。イエス様と同じ十字架では申し訳ないと逆さ十字架にかかって死んだと伝えられています。
一方、ヨハネは長命でしたが、晩年はパトモス島に流刑となり苦難の生活を送ります。しかし、新約聖書の中のヨハネの福音書、手紙、ヨハネの黙示録を書き残し、これらの書によって神様とイエス様の愛と救いを多くの人に伝え励ましを与えてきました。
ペテロはペテロに与えられた生涯を送り、ヨハネはヨハにふさわしい歩みをしたのです。私たちもそれぞれの役目や働きは違いますが、イエス様に従っていくとき、その人にふさわしい道に導かれ、それぞれの歩みを通して、神様はご自身の栄光を現されます。
結論)ヨハネは、自分のことを「イエスの愛しておられた弟子」(20)、と言いました。私たちも「イエス様が愛しておられる者」、「イエス様から愛されている者」です。そして、ペテロのように「罪赦された者」です。ペテロにはペテロに、ヨハネにはヨハネにふさわしく、イエス様がそれぞれに一対一で相対して下さったように、イエス様は私たちにもそうして下さっています。イエス様から示された道、与えられた道を歩んでまいりましょう。
私たち一人一人が「イエス様、あなたのご愛を感謝します。私はあなたを愛し、従います。」と告白して、主に委ねて歩み、主によって成長させていただきましょう。