ヨハネによる福音書21章1~14節

「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。」ヨハネ21: 4

序 論)週の初めの日(日曜日)、復活されたイエス様は弟子たちの前にみ姿を現されました。弟子たちは、イエス様にお目にかかり、喜びました(20章20節)。その次の週の初めの日、主イエスはトマスにもみ姿を示されました(20章26-29節)。その後、彼らはガリラヤへ行きます。彼らに対してイエス様は…

本 論)1.先にガリラヤで待っておられた
     エルサレムにいた弟子たちは、女性の弟子たちから御使いの伝言を聞きます。「今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と。」(マルコによる福音書16章7節 p.81)
この後、彼らはガリラヤに向かいました。ガリラヤ湖に漁に出た弟子たちがまだ気づいていなかったときからイエス様は、彼らを待っておられ、近づいて来て下さっていました。彼らが一晩中、網を投げて漁をしても魚は一匹も取れませんでした。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。」(4) イエス様はいつから岸に立っておられたのでしょう。イエス様は、弟子たちが夜通し漁をしている間中、網を打っても打っても何も獲れないという虚しい作業をしているときも、ずっと立って見ておられたことでしょう。弟子たちが気づかないときから、イエス様は彼らを見守っておられました。夜が明け始めたとき、岸辺に立たれたイエス様が彼らに声をかけられました。「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう。」(6) 弟子たちがイエス様のお言葉通りにすると驚くほどたくさんの魚が獲れました。弟子たちはそのとき、以前の体験を思い出しました。(ルカによる福音書5章1-11節 p.91)ペテロにも「あの時と同じだ」という感覚がよみがえってきたことでしょう。ペテロはこの時、改めてイエス様と最初にお会いして召し出されたときの言葉を思い起こしました。「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」(ルカ5章10節)  彼らはこの方が主イエスだとわかりました。イエス様に心を向けず、自分たちだけの力で獲ろうとしたとき、彼らは魚を一匹も獲ることができませんでした。しかしイエス様のみ言葉に素直に従ったとき、たくさんの魚が獲れました。私たちも日々の生活の中でイエス様との交わりを持たず、心の定まらない生活をし、自分の力だけで何とか頑張っていこうとしても、良い結果は生まれず、空回りしたり、疲れてしまうだけだったりします。イエス様に心を向け、信頼し、そのみ言葉に従っていくなら、その働きは良い実を結びます。

2.必要なものを備え、与えてくださる
  弟子たちが陸に上がってみると炭火がおこしてありました。イエス様が朝食の用意をして下さっていたのです。そして彼らのために用意された食事へと招いて下さいました(9-13)。このことは、イエス様は、弟子たちにいつも必要な養いを与えて下さる御方であることを示しています。主イエスは私たちに霊の養いだけでなく、心にも体にも必要な養いを与えて下さるのです。
日本に福音を伝えた宣教師たちも福音を伝えると同時に、医療・福祉・教育等の分野でも日本人のために大きな貢献をしました。私たちも地域の人たち、隣人との交わりの中で、福音を伝えると共に、たとえ小さな働きや奉仕であったとしても自分に与えられている賜物を生かし、自分が必要とされていることを、自分の出来る方法で提供していきましょう。この復活のイエス様との食事は、五千人の給食、最後の晩餐と共に、聖餐式の源流の一つと考えられます。最後の晩餐を共にした弟子たちが、イエス様とここでも食事をしました。そして、その後、教会で弟子たちは、聖餐にあずかる度に、復活の主がここに共にいて下さることを確認してきたのです。
復活されたイエス様が弟子たちに現れられたのは、これで三度目でした(14)。それは、弟子たちや私たちの信仰が弱く、もろいものであること、心が頑なであることを示しています。また、神様のご愛や恵みを忘れてしまいやすい者です。
イエス様は、そのような私たちに、主のご愛と恵みを示すために何度でもみ姿を現して下さいます。私たちの信仰の歩みは、何度も示されるイエス様の恵みの御業によって、 支えられ、導かれ、守れらていきます。イエス様に愛され、選ばれ、信仰を与えられた者は、この復活されたイエス様と共に生きるものであり、イエス様の愛と恵みを証しする者とされるのです。結論)イエス様が三度目に弟子たちにご自分を現わされたのはかつて彼らが慣れ親しんでいた場所であり、漁をしていた場所でした。
イエス様は彼らの日常の生活の場にご自分の姿を現して下さいました。今、聖霊なる神の御力とお働きによってイエス様は、いつもどんなときも私たちと共にいて下さいます。この地上だけでなく、天の御国に移されてもずっと一緒にいて下さいます。
イエス様は弟子たちと一緒に食事をされました。食事は私たちにとって日常のごくありふれた光景の一つです。そして食事はリラックスした語らいのときでもあります。
 ヨハネの黙示録3章20節でイエス様は「見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。」(p.390)と約束しておられます。ここで「彼と食を共にする」というのは最も親しい関り、交わりを示す表現です。
イエス様は、私たちと共に食事をして下さる方、私たちの日常生活の中で、親しく共に交わり、共に歩んで下さる御方です。イエス様が弟子たちをもてなして下さったように、私たちを養い、霊的に成長させて下さいます。主イエスから豊かで幸いな養いをいただき、交わりをさらに深めてまいりましょう。