イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。 ヨハネ20: 16
序 論)週の初めの日の早朝、マグダラのマリヤは、墓の入り口に置いてあった石が取りのけてあるのを見て、それを弟子のペテロとヨハネとに報告しました。二人はイエス様の御身体がなくなっていることを確認しましたが、それが聖書の預言の成就(9)だと悟ることはできませんでした。ペテロとヨハネは去り、その場にマリヤだけが残ります。
復活されたイエス様は…
本 論)1.私たち一人ひとりの名前を呼んで下さるマリヤは墓が空であることを見た後も、なおそこから離れることができずに泣いていました(11)。その涙はイエス様の死そのものを悲しむ涙であり、それに加えてその御遺体を誰かに奪われたと思い、御身体が失くなってしまったことを悲しみ嘆く涙でした。彼女は、自分の手でイエス様のなきがらを心を込めて葬りをしたかったのです。御遺体を目の前にして、お別れの時間がほしいと切に願っていたことでしょう。
まだイエス様が復活されたことを知らないマリヤは御使い(天使)の姿を見、声をかけられても悲しみから解放されませんでした(12-13)。しかし、イエス様はすでに復活しておられたのです。そして、マリヤのかたわらに立たれ、御声をかけられました。「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」(14-15)。 絶望に打ちひしがれたマリヤの目にはこの方がイエス様だとわからず、園の番人だと思っていました。主はもう一度、マリヤに呼びかけられます(16)。「マリヤよ」と懐かしい御声でいつものように呼び掛けて下さいました。このとき初めて、マリヤは目の前におられる方がイエス様であると気づきました。彼女は、主イエスとの親しい交わりを持ち主を愛していましたから、その御声で気づいたのです。
私たちもときには、このときのマリヤのように大きな悲しみや痛み、苦しみの中に全く見捨てられたように感じるときがあるかもしれません。しかし、復活され、今も生きておられるイエス様は、私たちをお見捨てになることはなく、私たちのところにも訪ねて来られます。そして、「マリヤよ」と呼びかけて下さったように私たち一人ひとりの名前を呼んで下さり、私たちがその呼びかけに応えてイエス様と父なる神様に心を向けることを待っておられます。
2.私たち一人ひとりを「わたしの兄弟」と呼んで下さる
復活されたイエス様に名前を呼ばれたマリヤは、「ラボ二(先生)」と答えました。それは、マリヤがいつもイエス様をお呼びしていた呼び方でした。その後、すぐにイエス様は彼女に「わたしにさわってはいけない」と言われました。この訳を文字通り受け止めると、イエス様に出会うことができて喜んだマリヤが思わずイエス様にすがりつこうとしたので、イエス様が「私に触れてはいけない」と言われたように受け取れます。でも、ここの個所のもとの言葉を調べると、マリヤはこのときすでにイエス様にすがりついていて、イエス様は「すがりついていてはいけません。もう手を離さないといけません。」という意味で言われたことがわかります。
その後、イエス様は、マリヤにご自身が神の御もとに昇られることを告げ、またこれを弟子たちに伝えるように命じられました(17)。なぜイエス様は、神様のもとに行こうとされたのでしょうか。それは弟子たちに聖霊を与えるためでした。イエス様は十字架にかかられる前の晩、弟子たちと夕食を共にされたとき、「助け主」(聖霊)が、来ることを告げられます(ヨハネ16章7節 p.168) 復活されたイエス様は、信じる者の益となるために天に昇られます。その後、イエス様は、約束通り、弟子たちに聖霊を与えて下さいました。
イエス様は、聖霊によって信じる者たちの内に住んで下さいます。それは、イエス様とのより深い人格的な交わりを持って歩んでいくためでした。主がマリヤに「私にさわってはいけない」と言われたのは、マリヤに対しても、今までの地上におられた目に見えるイエス様との関係ではなく、内に住んで下さる聖霊によって、イエス様とより深い交わりを持つことを望まれたのです。私たちが求めるべきイエス様との交わりも、私たちにすでに与えられている聖書のみ言葉と聖霊による深い交わりです。そしてイエス様はご自分を見捨てて逃げ去った弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」と呼ばれました(17)。それによって、イエス様の父なる神様は、弟子たちにとって、そして私たちにとっても父なる神様であることを示されました。十字架によって罪赦され、イエス様の復活と昇天によって聖霊をいただいた私たちは神の子とされているからです。(ローマ人への手紙8章12-16節 p.243) イエス様が十字架と復活によって成し遂げて下さった救いのみわざを信じる私たちはもはや罪に定められることはありません。ここで「肉」と表現されている、罪に支配されて生きることから、私たちはもう解放されています。そして、ローマ8章15節で語っているように神の子とされる御霊、聖霊が与えられて、神様を父とし、イエス様の兄弟、姉妹として歩む者とされているのです。
結論)復活されたイエス様が、マリヤ、弟子たちをご自分の方から訪ねて行かれ、御姿をあらわして下さったように、今も、私たち一人ひとりを訪ね、名前を呼んで下さり、私たちがそのよびかけに応えるのを待っておられます。十字架の苦しみを経て、復活されたイエス様は、たとえ私たちがどんなに絶望的な状況にいるように思えるときであったとしても、私たちの最大の希望、慰め、支えです。イエス様の十字架と復活によって、私たちは、今、父、御子、御霊の愛の交わりの中に招かれ、その中に入れられています。主のご愛に応えて、さらに主イエスを慕い求め、御霊によってイエス様との親しい交わりのうちに歩ませていただきましょう。