「すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、『すべてが終った』と言われ、首をたれて息をひきとられた。」 ヨハネ19: 30
序 論)総督ピラトによって、イエス様は引き渡され(16)、自ら十字架を背負って刑場
(ゴルゴタ)へ向かわれました。主イエスがかかられた十字架の周りには様々な立場の人たちがいました(祭司長たち、ローマの兵卒たち、イエス様の弟子である女性たち、…)。
イエス様は、彼らのために祈られ、言葉をかけられます。十字架のそばで起こったことと主のみ言葉の意味は…
本 論)1.旧約聖書の預言の言葉の成就
イエス様を十字架につけたローマの兵卒たちは、イエス様の着物を自分のものにするこ
とにしか関心がありませんでした。彼らはイエス様の上着を縫い目にそって、四等分し、縫い目のない下着は、だれがもらうかを決めるために十字架の近くでくじ引きをしていました。この出来事は旧約聖書の詩篇22篇18節のみ言葉の成就でした(24)。
「彼らは互いにわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引きにする。」(詩篇22篇18節 p.765)兵卒たちがこのように着物を分け、くじ引きにしたことの背後に、彼らの意思を超えた神様のご計画がありました。彼らは、自分たちは自覚しないまま聖書の預言が成就されました。このとき、人類の歴史の中で、神様が人間の救いのためになされた最も重大な出来事、神の御子が世の罪を背負って十字架の上で死なれ、神様の救いのわざの計画が、彼らのすぐそばで、今,成されようとしていました。しかし、兵卒たちは、十字架の最も近くにいたにも関わらず、イエス様に目を向けるどころか、自分たちの目の前にあるものが手に入るかどうかに夢中になっていました。これはイエス様を信じる以前の私たちの姿でもあります。イエス様が成して下さった救いのみわざについて何も知らず、神様に心を向けようとしないで、罪の中で永遠の滅びに向かっていました。
このような彼らのため、そして私たちのためにイエス様はご自分の着物だけでなく、すべてを与え尽くされました。イエス様が十字架の上で祈られ、命さえも与えて下さったのは、このときのローマの兵卒や周りにいた人々のようにイエス様がどのようなお方なのかまだ何も知らない人たちのためでもありました。
2.十字架の上でのイエス様の言葉(第3言、5言、6言)
イエス様は十字架にくぎづけになって激しい痛みに苦しんでおられたにも関わらず、すぐそばにいた母マリヤをいたわり言われました。「婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です。」 (26) そして残していかれる母親のことを配慮して、弟子のヨハネに向かって「ごらんなさい。これはあなたの母です。」 (27)と言われ、イエス様はヨハネにマリヤの今後のことを託されました。
ヨハネと母マリヤが親子の関係になることによって、イエス様を信じるという信仰による神の家族が始まりました。教会も神様を父とし、イエス様を長子とする神の家族です。イエス様は、かつて集まって来た人々に向かって、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。 神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。」(マルコ6章34-35節 p.55)イエス様を家族や教会、あるいは何かの集まりやグループにお迎えするとき、そこに神の家族が創造されます。実際の家族であればその家族はイエス様によって神の家族として再創造されています。神の家族、天の教会は永遠に続くのです。
次にイエス様が言われたことは「わたしはかわく。」(28)でした。これは詩篇22篇15節の言葉の成就でした。
「わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。 」 (詩篇22篇15節 p.765)
これは肉体的渇きと共に、神様を求める霊的な渇きでもありました。イエス様が私たちの身代わりに神から捨てられ、渇きを体験して下さったがゆえに、私たちはイエス様を通して、神様との交わりをいつでも持つことができ、聖霊が与えています。それゆえに私たちはいつまでも渇くことのない恵みにあずかれるのです。
「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう。」 (ヨハネによる福音書4章14節 p.140)
イエス様は兵卒の差し出した、酢いぶどう酒を飲まれました。そして最後に言われたのは「すべてが終わった」(30)と言葉でした。これは息を引き取られる最後のときが来たという叫びではありません。新改訳聖書では「完了した」、新共同訳聖書では「成し遂げられた」と訳され文語訳では、「事畢(終)(おわ)りぬ」と訳されています。(新聖歌109番4節の歌詞参照)28節で聖書は「イエスは今や万事が終ったことを知って」と告げています。このイエス様の「すべてが終わった」は旧約聖書の預言の言葉を一つ一つ成就して、神様がすべての人を罪から救おうとされたご計画がすべて成し遂げられ、贖いのわざが完成された勝利の叫びでした。
すべての人の救いのために働き続けて来られたイエス様は、その使命をすべて果たされ、ご自分の霊を父なる神様に委ねて息をひきとられました。
結論)神様はイエス様の十字架による救いという人知をはるかに超えたなさりかたで、救いの計画を完成されました。それは、神の御子が人となられ、十字架にかかられて死ぬという道でした。イエス様が十字架で苦しみを受けられ、血を流して下さったので、すべての人が救われる道がすでに開かれています。私たちはそれをただ信じるだけで救われるのです。
聖書は、「いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。」と語っています。 (ペテロの第二の手紙1章3節 p.372) 「いのちと信心にかかわるすべてのこと」はもうすでに イエス様によって与えられています。私たちがこれから他のものを造り出したり、何かをこれ以上付け加える必要はないのです。私たちの信仰が育てられ、守られ、そして永遠の命に生かされるために必要なすべてのことはイエス様によってなされ、すべては成し遂げられたのです。
私たちのできることはこのイエス様の十字架の救いを感謝し、信じ、私のためであったと受け取ることです。受難週に入る今日から一週間、十字架の上の七つの言葉一つ一つを深く黙想し、イエス様の苦難と十字架の恵みを さらに覚え、神様に対する悔い改めと主イエス様への信仰を強めるとき、感謝のときといたしましょう。