ヨハネによる福音書18章15~27節

「…、『あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」。ペテロはまたそれを打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた。」              ヨハネ18:26-27

序 論)イエス様は、ゲツセマネの園におられるとき祭司長たちに捕えられました。その後、大祭司の前での宗教裁判が始まりました。不当な裁判の中で、どんなに侮辱されてもイエス様の毅然とした態度は変わりませんでした。ご自分の弟子たちや教えについて尋問されても、イエス様は弟子たちのことには一言も触れず、ご自分の教えが、明白な言葉で、しかも「会堂や宮」のように人が集まるところで公然と語ってきたと言われます。また、平手打ちをされても、そのような仕打ちを受ける行為は何もしていないと強く主張されました(19-23)。それと対照的にペテロは、剣を振り回すことはできましたが(10)、自分がイエス様の弟子であることを告白することはできませんでした。
イエス様は…

本 論)1.ペテロのために祈られた
     最後の晩餐のときイエス様は、ペテロの裏切りを予告されました(13章36-38節)。またペテロのために祈ったと言われます(ルカ22章31-32節 p.128)。
イエス様はご自分を捕らえに来た祭司長たちに、「…、この人たちを去らせてもらいたい。」(8節)と言われました。しかし、ペテロは「もうひとりの弟子」と一緒にイエス様の後についていきます。そして、大祭司の邸宅の中庭に入りました(15)。もう一人の弟子は、自分が誰であるかを告げているのに(17)、ペテロは、自分がイエス様の弟子であることを否定しました(18、25、27)。イエス様は祭司長たちに「わたしはそれである。(I am.)」と堂々と答えられましたが(5、6、8)、ペテロは「いや、そうではない(I am not.)」と言い、呪いの言葉さえ口にしてしまったのです。(マタイ26章74節 p.46 口語訳では訳されていない 新改訳「すると彼は「そんな人は知らない」と言い、のろいをかけて誓い始めた。」)主を知らないと三度目に言ったとき、イエス様はペテロを見つめられました。(ルカ21章61節 p.130)。それは、ペテロの罪や失敗を赦す、愛のまなざしでした。鶏の鳴く声を聞いて(27)、ペテロはイエス様が予告されたことを思い出し、激しく泣きました(ルカ21章62節)。
イエス様がペテロのために祈られたように、今もイエス様は父なる神様の右の座で私たち一人ひとりのためにとりなし祈って下さっています。(ローマ人への手紙8章34節 p.244)。そして、私たちのことを愛のまなざしで見つめて下さっています。
私たちもイエス様の愛を受けて、イエス様のように他の人のためにとりなし祈る者となるよう神様は願っておられるのです。

2.ペテロを赦し、立ち直らせて下さった
  そのときの鶏の鳴き声は、イエス様が十字架にかかる日の夜明けを告げる声でもありました。その日、十字架にかかってすべての罪のさばきを一身に受けられたイエス様は、三日後に復活され、ペテロの前に御姿を現されました。イエス様は、ペテロの罪と失敗を赦し、愛をもって受け入れて下さったのです。主はペテロに、「わたしを愛するか」と三度尋ねられ、「わたしに従ってきなさい。」と言われます。(ヨハネ21章15-19節 p.178)   この18章では、自分の力に頼って剣を抜き、イエス様に従おうとして失敗してしまったペテロでしたが、キリストの深い愛を知り、このときから本当に主に従う者へと変えられたのです。ペテロはそのように立ち直ることができ、伝道者として歩むことができました。
ペテロは、自分はイエス様の弟子であることをあのときは否定してしまった、大きな罪を犯してしまった、恥ずかしい、とかつてのことを思い出すときもあったことでしょう。けれども、ペテロはそれを赦し、包み込んで下さる、主イエスの愛と恵みを知っていました。だからペテロはできれば隠しておきたい自分の裏切りと失敗を隠さずに何度も語り続けました。四つの福音書すべてに、このときのペテロがイエス様を否認した出来事が記されています。こんな自分だったけれど、イエス様が再び私を受け入れて下さった、自分のみじめな姿よりも、キリストの愛がそれをはるかに上回っていると、失敗談ではなく、キリストの恵みを語ったのです。
私たちは誰もが、できれば人に隠しておきたい、見られたくない、そんな姿を隠している者です。しかし、そのような私たちのためにイエス様は、十字架にかかり、よみがえられました。イエス様は、私たちが自分の罪を認め、その重荷をご自分のもとに持って来ることを願い待っておられます。(マタイ11章28節 p.17) たとえ、何かの失敗や罪を犯してしまったとしても、イエス様のもとに立ち返るとき、イエス様は私たちの罪を赦し、新たに立ち直らせて下さるのです。
結論)ペテロのあの空威張り、不甲斐なさ、自分のみじめな姿を示されることは私たちにもあるのではないでしょうか。もっと突き詰めて言えば、私たちの高慢さ、罪深さです。しかし、そのような愚かで罪深い私たちのためにイエス様は十字架で命を捨てて下さいました。私たちはいつでもそこに立ち返ることができるのです。この失敗、挫折があったからこそ、ペテロは信仰の原点に立ち返ることができました。それは自分に絶望して、ただイエス様にお頼りするようになることです。自分は愚かで罪深くて神様の赦しと助けがなければやっていけない。イエス様にお頼りするしかない。その時にこそ、私たちは
神様に支えられて、強く立ち、歩むことができるのです。イエス様が、ペテロを支え、助けて下さったように私たちのことも支え、助けて下さるのです。