ヨハネによる福音書15章1~11節

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。…」  ヨハネ15:7

序 論)イエス様が十字架にかかられる前の日(洗足木曜日)の夜、弟子たちとの最後の晩餐を終えられたイエス様は、彼らに大切なことを語り続けられました。この15章の前半の箇所で、イエス様は、ご自分をぶどうの木に、弟子たちをぶどうの枝に、そして父なる神様を農夫にたとえられました(1、7)。私たちがキリストにつながるとは、どうすることなのでしょうか。そしてキリストにつながると私たちはどうなるのでしょうか。

本 論)1、キリストにつながるとは…
「わたしはぶどうの木、わたしの父は農夫である。」(1節)
旧約聖書の中で「ぶどうの木」は、イスラエル民族を象徴する言葉として使われています。「あなたは、ぶどうの木をエジプトから携え出し、 もろもろの国民を追い出して、これを植えられました。」  (詩篇80:8 p.820)この聖句は、神様がかつてイスラエルの民をエジプトの地から約束の地カナンへと導き出して下さったことを回想しています。
預言者イザヤは、イスラエルが神様の願いに反して悪いぶどうの実を結んでしまったことを告げています。
「わたしが、ぶどう畑になした事のほかに、何かなすべきことがあるか。わたしは良いぶどうの結ぶのを待ち望んだのに、どうして野ぶどうを結んだのか。」(イザヤ書5章4節 p.948)
甘いおいしいぶどうではなく、野ぶどうの酸っぱい実を結んでしまった、すなわち偶像礼拝の罪を犯し、悪い行いを重ねてしまったイスラエル民族のことを神様は嘆き悲しんでおられます。私たちの人生も、何につながるか、誰につながって歩むかは私たちの生活に大きな影響を与えます。イエス様がマタイ7章17節で「良い木は良い実を結び悪い木は悪い実を結ぶ」と言われているように、私たちの歩みは、何を信じ、従うのかによって、それが「生き方」や「品性」や残したもの」等に現れてきます。
「一生を終えてのちに残るのは、われわれが集めたものではなく、我々が与えたものである。」(三浦綾子著『続・氷点』の中で引用されているフランス人神父ジェラール・シャンドリーの言葉)「おもしろいものだね。あくせくして集めた金や財産は、誰の心にも残らない。しかし、隠れた施し、真実な忠告、あたたかい励ましの言葉などは、いつまでも残るものだね」(上記の言葉を聴いたもう一人の登場人物の言葉)旧約時代、偶像礼拝の罪に陥ってしまったイスラエル民族に代わって神様はイエス様を「まことのぶどうの木」として私たちに与えて下さいました。イエス様は、「わたしは(このわたしこそ)まことのぶどうの木(である)」と語られました。イエス様こそ神様の約束を真実に実現される御方であることをここで宣言されました。さらにイエス様は、父なる神様を農夫にたとえられました。「…父がすべてこれをとりのぞき…」(2節) 「とりのぞく」と訳されている元の言葉の訳の通り、「(ぶどうの木の枝)を剪定する」と解釈すれば、6節で言われた「さばき」を宣言する言葉と呼応しています。
これとは逆に原語には「支える」という意味があります。当時のユダヤの国のぶどうは現在の日本のものと違い、地に這わせていました。農夫が実を結ばない枝を支え、持ち上げて多くの空気と光に触れさせて下さるように父なる神様が弱い枝を支えて下さると解釈する説もあります。
「わたしが語った言葉」(3)は、これまでイエス様が弟子たちに語り続けてこられた言葉のことです。そのみ言葉によって弟子たちはすでにきよくされています。
「わたしにつながっていなさい。」(4)と主は言われます。  「つながる」は「とどまる」、「宿る」等の意味を持つ言葉です。新改訳では「わたしにとどまりなさい」と訳されています。私たちが、しっかりととどまるべき場、それはまことのぶどうの木であるイエス様です。この勧めは「わたしに対する信仰(信頼)を持ち続けなさい」と言われるイエス様のご命令であり、呼びかけです。枝が幹から流れてくる樹液によって成長するように、私たちはイエス様を通して、神の愛とみ言葉をいただいて生きる者です。
キリストにつながる(とどまる)とは、聖書の言葉を「神の言葉」として、心にたくわえることです。(コロサイ書3章16節 p.317) そして、キリストの名によって父なる神様に祈り、イエス様との人格的交わりを続けていくことです。礼拝、交わり、日々の「内なる生活(個人のデボーション)」を大切にしましょう。

2、キリストにつながると…
「その人は豊かに実を結ぶようになる。」(5)新約聖書で語られている「実」とは、「義の実」(ピリピ1:11 p.308)、「福音宣教の働きの実」(コロサイ1:5~10 p.314)、「御霊の実」(ガラテヤ5:22~23)です。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。」(ガラテヤ5:22~23 p.299)
これらの「実」は、私たちが自分の努力で生み出すものではありません。私たちがイエス様につながることによって私たちは御霊の実を結んでいきます。私たちが、イエス様を信頼し、日々、祈り、聖書の御言場を通して、イエス様がどのような御方かを知り、交わりを深めていくとき、父なる神様がイエス様を通して、私たちの内と外に実を結ばせて下さいます。イエス様のもとにとどまり続ける私たちを霊的に(心を)成長させて下さるのは父なる神様です。イエス様が父なる神様の愛の中にとどまられたように、私たちも主の愛の中にとどまることができますように。そして御霊の実の一つである、キリストにある喜びに満たされることができますように(11)と祈り求めていきましょう。

結論)イエス様は今も変わらずに、「わたしのもとに来なさい」「わたしにつながっていなさい」と私たちを招いて下さっています。私たちを罪から救い、天の御国にまで招いて下さるイエス様を信じ、豊かな実を結ぶように、どんなときもこのお方につながり、交わりを持ちながら歩んでいきましょう。