ヨハネによる福音書12章20-28節

よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。                ヨハネ12章24節

序 論)イエス様がエルサレムに入城されたとき、群衆はイエス様を「ホザナ、…」と叫び、歓呼して迎えました。イエス様が、王となられ、奇跡的な力を使って、ローマ帝国の支配からユダヤ民族を解放して下さることを期待していました。しかし、イエス様が告げられたことは…

本 論)1、「栄光の時」の到来
  エルサレムに巡礼に来ていたギリシヤ人たちが、「イエスにお目にかかりたいのですが」(21)、と弟子たちを訪ねて来ました。弟子のピリポたちからギリシヤ人が訪ねてきたことを聞かれたイエス様は、「人の子が栄光を受けるときが来た。」(23)と語られました。
これまでのイエス様は「わたしのときはまだ来ていない。」と言われ(ヨハネ2章4節、7章8節)、ユダヤ人に福音を伝えることを優先してこられました。しかし、これらのへりくだって主を求めてきたギリシヤ人を世界中の人々の代表であり、これから世界中の人々がイエス様の救いの恵みにあずかっていくさきがけと見なされ、ここではっきり「わたしのとき」が来たことを告げられました。それはイエス様が十字架にかかられるときであり、なそうとしておられる救いのみわざの完成のときでした。イエス様にとって「栄光を受ける時」とは、自らが栄光を受けるときではなく、すべての人が罪から救われるために自らを十字架にささげられ、あがないのみわざをなされる死のときでした。
イエス様が十字架によって、ユダヤ人だけでなく、全人類の罪の罰を身代わりに受けて死なれる神の時が来たのです。イエス様が父なる神様に祈られた後、父なる神様の御声が響きわたりました。
「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。(28)   イエス様を通してご自分の栄光を顕わされた神様は、イエス様の十字架を通してさらに栄光を現そうとしておられました。
ギリシヤ人が「イエスにお目にかかりたい」と言ったように、私たち自身もイエス様にお目にかかりたい、お会いしたい、お交わりを持ちたいという強い気持ちがあります。 今、私たちは肉眼ではイエス様を直接、見ることはできません。でも、詩篇27篇で神様は「わが顔を尋ね求めよ」私を尋ね求めなさい、と言っておられます。詩人は、このみ言葉に対して、「わたしは御顔を尋ね求めます」と答え、神様を求めました。(詩篇27篇8節 p.769)  イエス様も「求めなさい」と言われます(マタイによる福音書7章7-8節 p.11) 神様は求める者に与えて下さいます。私たちは、今、聖書のみ言葉を通して、イエス様 が私たちと共におられることを確認し、祈りを通して、イエス様のご臨在に触れ、交わりを持つことができます。

2、一粒の麦として死なれること
  イエス様の最大の使命は、すべての人を罪から救い、解放することでした。そのために父なる神と共におられた御子イエス様が「一粒の麦」となるため、人となって地上に来て下さいました。(24)
一粒の麦が地に落ちて死ぬとは、イエス様が十字架で死なれることです。そして、そのことによって「豊かに実を結ぶ」と言われます。一粒の麦が地に落ちて死んで、新しい麦の粒を無数に生み出すように、イエス様の死と復活によって、すべての人が救われ、永遠の命に生かされる道が開かれました。それは、今から約2000年前、歴史的事実としてなされたのです。主イエス様の十字架と復活の後、イエス様を信じ、従い、仕える人たちが次々と起こされていきました。その豊かな実は今も結ばれ続けられています。世界中に 今、約73億8600万人の人がいてそのうちの20数億の人がクリスチャンだと言われています。この教会も、私たちもイエス様の十字架によって結ばれた実の一つ一つなのです。  続いてイエス様はこのように言われます。「自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。」(25)  ここで言われる「自分の命を愛する者」とは、自分ばかりを大切にする、自己中心の生き方をする人のことです。これと反対に「自分の命を憎む者」とはどういう意味でしょう。ここで「憎む」と訳されている言葉はヘブライ語やギリシヤ語の言葉では、「執着しない」、「第一としない」という意味です。(同じ言葉が使われている用例は マラキ1章2節 p.1323、ローマ9章13節 p.244)それは自分の力でできるのではなく、イエス様に信頼し、従っていくときに、私たちをイエス様が変え、成長させて下さるのです。
イエス様を訪ねて来たギリシヤ人たちは自分の弱さや足りなさや罪を自覚し、へりくだった心を持っていた人たちでした。十字架の死によって底の底まで降って下さったイエス様は、へりくだる者を引き上げて下さるお方です。

結論)エルサレムに来られたイエス様を「ホサナ」と叫んで迎えた人々ように主を賛美することは素晴らしいことです。イエス様をお乗せした、ろばの子のように、イエス様の御用のために用いられることは幸いです。
  でも、もっと大切で尊いことは、イエス様のご愛をいただいた私たちが、それぞれ一粒の麦となって死ぬことです。でもそれは、肉体の命を捨てることではありません。よく 教会では「己に死ぬ」という表現を使います。イエス様の深いご愛を知った私たちも自分ばかりを大切にする生き方をやめ、周りの人たちの救いのために自分を用いさせていただくという生き方にチャレンジするとき豊かに実を結ぶことができます。
具体的には、自分の身の周りの小さな犠牲の必要な方を選び取っていく生き方です。例えば、損得を越えて人に親切にすること。許せないという思いを越えて親切にすることも含まれるでしょう。時には、時間をとって人の話に耳を傾ける必要があるときもあります。
このように私たちがたとえ一時的、肉体的に損と思えるようなことがあっても、一粒の麦となって自分に死ぬ、そのような生き方を選ぶとき、神様が目を留めて下さり、イエス様の栄光を顕わしてくださいます。