弟子たちは出て行って、村々を巡り歩き、いたる所で福音を宣べ伝え、また病気をいやした。 ルカ9章1-6節
序 論)ガリラヤでいやしのみわざをなされた後、イエス様は十二人の弟子たちを呼び集められました(1)。以前、イエス様は徹夜の祈りを経て、弟子たちの中からこの十二人を選び出されたことが告げられています。(ルカ6章12,13節 p.100)。そして彼らを「使徒」と名付けられました。「使徒」は「遣わされた者」という意味です。イエス様が十二人を選ばれたのは遣わすためでした。主イエスが遣わされたのは…
本 論)1、福音を宣べ伝えるため
イエス様は「彼らにすべての悪霊を制し、病気をいやす力と権威とをお授けになった。」(1)のです。悪霊を追い出し、病をいやす。それは、8章で告げられているようにすでにイエス様がなされていたことでした。そのイエス様の力と権威が、派遣されるに当たって彼ら自身に与えられる、それは彼らにとっても驚くべきことだったでしょう。しかし、イエス様が彼らを遣わされたのはそれらのことが目的ではありませんでした。
彼らを派遣された第一の目的は、神の国を宣べ伝えることでした(2)。前の章でもイエス様が町や村を巡りつつしておられたことは、「神の国の福音を説きまた伝え」(8章1節)るためでした。「神の国」とは、神様のご支配という意味です。それは力による支配ではなく、救いを与えるため、愛と恵みによるご支配でした。神の救いのみわざが今、すでに始まっている、とイエス様は宣べ伝えられました。それは、良い知らせ、救いの喜びを告げる知らせ、福音です。
十二弟子に与えられた使命の中心も、神の国の福音を宣べ伝えることであり、それをするために、悪霊に打ち勝ち、病をいやす力と権威が与えられたのです。
イエス様が弟子たちの中から選ばれた十二人は特別に信仰が深い人たちだったわけではありません。この中の一人は後にイエス様を裏切ったイスカリオテのユダもいました。 また一番弟子のペテロですら、イエス様が捕らえられたときには、三度「そんな人は知らない」と言ったのです。十二人の使徒たちは、私たち一人一人と同じ、信仰において弱さを持つ者たちでした。イエス様はそういう人たちを選び、遣わされました。
私たちも、自分は弱い者であり、神様のお役に立つことなど何もできないと思ってしまうかもしれません。でも主イエスは、わたしたち選び、派遣なさるのです。私たちキリスト者は、世の多くの人々の中から、イエス様によって選ばれ信仰を与えられ、神の国の福音を告げ知らせるために派遣されているのです。それはただ神様のあわれみと恵みによるのです。私たちがこの礼拝に集っていることにも神様の選びと招きがあるのです。
2、主イエスの力、神の力に信頼して
イエス様は十二人を派遣するに当たって何も持っていくな、と仰られました(3)。町に入って伝道の拠点となる最初の家を見つけたら、そこに留まって伝道しなさい、と(4)。神の国の福音を告げ知らせる働きをすることによって、福音を信じる人たちが起こされ、救いにあずかる人たちが生まれる、そして神様があなたがたを養って下さるから心配するなと、言われます。そして足のちりを払い落すという行為(5)は、当時、よくなされていたことでした。私とあなたは関りがない、責任を持たないということを表す行為だったようです。もし誰も受け入れてくれる人がいないならば、それはあなたの責任ではない、次の町に行きなさいと、主は仰いました。弟子たちが宣べ伝え、受け入れられなかったとしても、その責任は神様が担って下さるのだと、励まされたのです。
彼ら十二人は実際に遣わされ、イエス様に授けられた力と権威を行使しました(6)。彼らが自分でも驚くようなみわざが行われていったのです。イエス様によって選ばれ、派遣された者は、このような驚くべきことを体験します。自分の力では起こり得ないようなことを、自分を通して神様がなして下さることを体験するのです。
当時の弟子たちの置かれていた状況と私たちの今、生活している環境は違う点もありますが、私たちも自分の持っている能力や技術、蓄え等に頼るのではなく、ただひたすら、イエス様の力、神様の力により頼み、それに信頼して、神の国の福音を、救いの知らせを宣べ伝えなさい、とイエス様は私たちに仰っておられます。
結論)「献身」をして牧師、伝道者になることだけが、神様による選びと派遣ではありません。
イエス様は、十字架にかかり、復活された後、父なる神様から「天においても地においても、いっさいの権威を授けられ」ました(マタイ28章18節 p.50)。今、イエス様は、私たち一人ひとりをそれぞれの場所に遣わしておられます。私たちはそれぞれが、置かれている場で、そこで出会う人々との人間関係において、神の国の福音を告げ知ら せ、証しするために選ばれ、派遣されているのです。そこでどのようにして神の国の福音を語り、証していくのか、それは私たちに委ねられています。
例えば、家族の中で自分一人が信仰者である場合に家族を教会に誘うことです。たとえ積極的に教会に案内することはできなくても、教会の礼拝を大切に守り続ける中で、 ひたすら家族のために祈り続けるというのも、神の国の福音を告げ知らせる一つの姿です。どのような形を取るにせよ、大事なことは、神様が自分を、今ここで、この家庭、 この職場で、この人間関係の中で、主イエス・キリストの福音を証しする務めを与えて派遣しておられることを覚え、そのように受け止めることです。
そして、その務めを、自分の力によってではなく、イエス様の力、神様の力に信頼して忍耐強く続けていくことです。そのような歩みの中で私たちは、自分たちの力ではとうてい起こり得ないような神様の偉大なみわざを見せていただくのです。十二人が最初に伝道の旅へと遣わされたこと、そして福音が「いたる所」(6)、後に世界中に広がっていったことを覚えます。私たちの教会もその流れの中にあります。私たちの教会は、65年の歴史を経て来ました。最初にこの地に遣わされて来た宣教師がおられ、最初に開かれた家庭集会、礼拝からこの教会の歴史が始まったことを覚えましょう。この地にますます福音が宣べ伝えられるように、神様がすべてを備え、導いて下さると信じ、主イエス様の弟子として歩みましょう。