ルカによる福音書8章19-25節

イエスは起き上がって、風と荒浪とをおしかりになると、止んでなぎになった。 イエスは彼らに言われた、「あなたがたの信仰は、どこにあるのか。」…              ルカ8章24-25節

序 論)イエス様が多くの群衆たちに教えを語っておられたとき、主イエスの母と兄弟たちがやって来ました。母と兄弟たちが来たという知らせがイエス様に伝えられたとき、主は神の御言を聞いて行う者こそ、わたしの母、わたしの兄弟なのである」(21節)と言われました。その後、イエス様は、弟子たちといっしょに舟に乗り込み、ガリラヤ湖の向こう岸へと船出しました。途中で嵐になります。主が弟子たちに願われたこととなされたことは…

本 論)1、主が求めておられる「信仰」
  「突風が湖に吹きおろしてきたので、彼らは水をかぶって危険になった。」(23) 嵐になり、元漁師であった弟子たちの力でも舟が沈みそうになりました。「水をかぶる」のもとの言葉は「いっぱいになる」、「満ちる」という意味です。舟から水をかきださないと沈んでしまう状態でした。弟子たちは、「わたしたちは死にそうです。」と言うほどに切迫した状況でした。
そんな中、イエス様は水をかぶらない「舳(とも)の方」で眠っておられました(マルコ4章38節)。主イエスのところには、嵐と関係がないかのように静けさがありました。 しかし、弟子たちは、耐えられなくなり、イエス様を起こしました。主イエスは起き上がって、風と波をお叱りになりました。すると風と波は静まって凪(なぎ)になったのです。そしてイエス様は弟子たちに、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」とおっしゃいました。これは、溺れ死んでしまうという恐怖の中でパニックになっていた弟子たちをたしなめる、お叱りの言葉です。でも、この言葉は、「あなたがたの信仰は本当ならここにあるはずではないか」という積極的な期待を込めた、励ましの言葉でもありました。
イエス様が私たちに期待しておられること、求めておられることは、「神の言葉を聞いて行う者」(21)となることです。弟子たちはイエス様に叱られてしまいましたが、それでは彼らはあの嵐の中でどうすべきだったのでしょうか。
イエス様に叱られることのない、信仰がここにある行いとはどのようなものなのでしょうか。それは、嵐で舟が沈みそうになっても、すぐそばにいて下さるイエス様を信頼し、漕ぐ者は力いっぱい漕ぎ続け、水をくみ出す者は力の限りくみ出し続けることでした。つまりイエス様のご支配と守りと導きとを信じて、パニックに陥ることなく、今自分に与えられている役割、働きを担い続けることです。
私たちは、「神の言葉を聞いて行う」ということの意味を間違って受け止めてしまいやすい者です。神様が私たちにみ言葉によって語りかけておられることは、根本的には あれをしなさい、これをしてはいけない、という掟や戒めではありません。神様のみ言葉が私たちに語っておられるのは独り子イエス・キリストによる救いです。イエス様が私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり罪の赦しを実現して下さいました。神様はその主イエスを復活させ、私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さったのです。神様のみ言葉が私たちに告げているのは、この主イエス・キリストによって実現されている救いの恵みです。それを聞いて行うとは、この神様による救いの恵みを信じて、どのような時にも主イエスに信頼して、主イエスと共に生きることなのです。

2、信仰の薄い私たちの言葉と祈りさえも
  私たちは、神様のみ言葉によって独り子イエス・キリストによる救いの恵みを示されました。そして、それを信じて主イエスに従う者となり、主イエスが共に歩んで下さるという約束に信頼して信仰の人生に船出したのです。しかし、その信仰の歩みにはときに嵐が襲ってきます。その嵐の中で、共におられるはずのイエス様が、本当にいて下さるのか、神様は私のこの苦しみをご存じなのだろうか、あるいは見捨てられているのではないかと疑ってしまうことがあります。そんな時、弟子たちがそうであったように私たちは、嵐の中でうろたえ、パニックに陥ってしまうのです。弟子たちのようにすぐにイエス様を揺さぶり起こし、悲鳴を上げて泣きついてしまいます。それは、まさに「あなたがたの信仰は、どこにあるのか」と言われざるを得ない有様です。しかし、イエス様はそのような私たちのために、起き上がって、風と波をお叱りになり、嵐を静めて下さるのです。
神の言葉を聞いて、その時は感動をもって受け止めても、思いがけない試練に遭うと信仰がどこかに行ってしまうような私たちを、イエス様は憐れんで下さり、その御力によって守り、支えて下さるのです。
弟子たちの「先生、先生、私たちは死にそうです。」は信仰の言葉でも祈りの言葉でもありません。でも、主イエスは弟子たちの助けを求める声に応えて下さいました。私たちの嘆きの言葉にもイエス様は耳を傾けて下さり、小さな祈りにも応えて下さいます。

結論)イエス様による救いを体験した弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、このかたはだれだろう。お命じになると、風も水も従うとは」(25) と言いました。 「いったい、このかたはだれだろう。」信仰者として生きるとは、この驚きと問いを常に繰り返し味わいつつ生きることです。私たちが主イエス・キリストのことを、「こういう方だ」とすべて解ってしまうことはありません。でも聖書を通し、日々の生活での体験を通してイエス様のことを知れば知るほど、主の恵みの大きさ深さに驚かされます。そして、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さをさらに知らされます。(エペソ人への手紙3章17-19節 p.304)   私たちは主イエスの愛と言行に驚きを覚えながら、いったい、このかたはどなたなのだろう」(新共同訳)と問いつつ歩みます。そしてその歩みの中で私たちは、
神様のみ言葉の力を体験させられていきます。私たちが実行することによってではなく、神様ご自身の力でみ言葉が実を結んでいくことを体験していくのです。そのような体験と驚きを繰り返していく中で、私たちは、神様の言葉を聞き、それをしっかり持ち続け忍耐しつつその実現を待つ者とされていきます。
日々の歩みの中で、神の御子、救い主イエス様の愛と素晴らしさをさらに知る者とならせていただきましょう。