ルカによる福音書8章16-18節

だから、どう聞くかに注意するがよい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう」。                ルカ8章18節

序 論)イエス様は、弟子たちと人々に種をまく人のたとえを語られました。イエス様が神の言葉である種をまき続けて下さること、み言葉の中に神の国の奥義が隠されていることを語られました。「あかりのたとえ」を語られます。
このたとえを通して伝えようとされたことは…

本 論)1、神の言葉はやがてあらわになる

  あかり(ともし火)は覆い隠したり寝台の下に置くべきものではない、つまりともし火は隠すものではなく、人々によく見えるようにすべきだと、イエス様は言われます(16節)。ここで言われている「あかり」は何を意味しているのでしょう。これは、「種まきのたとえ」を語られた後で言われていますから、「種」が神の言葉を表しているように、 「あかり」も神の言葉を意味しています。神様のみ言葉は覆い隠されるべきものではありません。人々にはっきりと示されるべきものです。
さらに「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘密にされているもので、ついには知られ、明るみに出されないものはない。」と語られました。(17節)
神様は今も聖書を通し、教会を通してみ言葉を語りかけて下さっていますが、そのみ言葉はなかなか人々の耳に届きません。神様がみ言葉を語りかけておられるのに気づかない人が大勢いるのです。それは私たちのことでもあります。聖書を読み、礼拝に集っている私たち自身も、かつては神様のみ言葉を本当に聞き、それをしっかりと受け止めることがなかなかできないものでした。「種をまく人のたとえ」はそういう私たちの現実を示しています。私たちは、み言葉の種をしっかりと受け止める良い地になれず、道端のようであったり、石地のようであったり、茨の中であったりします。また聖書を読んでも難しい、理解できないと感じてしまいます。神様のみ言葉が隠され、秘密にされているというのは、まさに私たちの現実です。
けれども神様のみ言葉は、いつか必ずはっきりと表わされ、公になり、実現します。そのことに注意しなさい、しっかりと見つめなさい、と主イエス言われます。人ではなく神様ご自身が、ご自身のみ言葉を表し、人々にはっきりと知らせ、お語りになった救いの約束を実現して下さるのです。そのことは既に主イエス・キリストによって実現しました。神様が独り子イエス様をこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様が約束して下さった救いは実現したのです。私たちはこのイエス様の十字架のみわざによる神様の救いの御業を知り、信じ、受け入れました。そして神様は今も私たちの心を良い地に変え続けて下さっています。それによって私たちはさらに救いを完成して下さる神様の約束を信じ、その御力に信頼して、み言葉を聞くことができるのです。

2、神の力に信頼して
  イエス様は「良い地」を、み言葉を「正しい心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たち」と言われます。(15節) これは、私たちが自分の力でみ言葉を生かし、実らせることができるような立派な人になる、ということではありません。み言葉を実現して下さる神様の力に信頼しつつみ言葉を聞き、それを自分の内に大切に持ち続け、み言葉の種が神様の力によって芽を出し実を結ぶことを忍耐して待つことこそが、良い地である人間の姿なのです。
「だから、どう聞くかに注意するがよい。」(18節)というみ言葉もそれと同じことを語っておられます。み言葉をあらわにし、実現して下さる神様の力を信じて、その御業を待ち望みつつみ言葉を聞き続けていくことが勧められています。
「持っている人は更に与えられ、持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。」(18節) このみ言葉も、ここだけ取り出して読むと誤解されやすい言葉です。経済的に豊かな人はますます豊かになり、貧しい人はますます貧しくなるという意味ではありません。ここも神の言葉を聞くときに起こることが語られています。
「持っている人」は、「どう聞くか」に注意し、正しくみ言葉を聞いている人です。つまり、み言葉をあらわにし、実現して下さる神様の力に信頼して、その御業を待ち望みつつみ言葉を聞いていく姿勢を持っている人です。そのような姿勢でみ言葉を聞く人にはさらに与えられます。み言葉によって与えられる恵み、祝福がその人の内でどんどん大きくなるのです。 しかし、「持っていない人は、持っていると思っているものまでも、取り上げられるであろう。」これは「どう聞くか」に注意せず、み言葉を正しく聞く姿勢を持っていない人のことです。神様の力に信頼するのではなく、自分の力を示すためにみ言葉を利用しようと思っている人、神様のみ言葉の恵みの中で自分が生かされるのではなく、自分が自分の考えを伝えるためにみ言葉を使おうとする人です。そのような姿勢でいると、神様のみ言葉を本当に聞くことができません。新たに聞くことができないばかりか、すでに聞いたと思っているみ言葉も、神の言葉として聞いていなかったことが明らかになってきます。「持っていると思っているものまで取り上げられる」はそのような意味で語られています。

結論)自分では神様のみ言葉を聞いて実践しているつもりでいるけれども、実はその人が行っているのは神様のみ言葉ではなく、自分の言葉、自分の考えであることがあります。「どう聞くのか」に注意しないとこのようなことが起こります。神様のみ言葉を聞くことができなくなってしまうのです。そこには旧約の預言者アモスが語った神様のみ言葉聞くことができない「飢えと渇き」が生じます。(アモス書8章11節 p.1277)
神様のみ言葉を聞くことができない飢えと渇き、それは私たちが気づかない間に、自分の力に自信を持ち、自分の考えや主張や感覚によって人生を歩むことができると思っている間に進行していきます。自分の力や考えに頼って生きようとするときに、私たちは実は飢えと渇きの中にあるのです。なぜなら、私たちが自分で考えることや自分の力で出来ることの中には、人生を本当に養い、潤す豊かさはないからです。しかし、私たちが自分の力ではなく、神様の力に信頼し、神様の恵みのみ言葉によって生かされることを願いつつみ言葉を聞いていくならば、私たちは、今あるみ言葉の恵みをさらに豊かに増し加えられていくのです。その恵みは無尽蔵です。その無尽蔵の恵みにあずかるために、「ひざまずいて」み言葉を聞きましょう。
神様は私たちに「あなたによってわたしの輝きは現れる」(イザヤ49章3節 新共同訳)と御声をかけて下さり後から「入って来る人たち(18)」にも光を見せて下さいます。