ルカによる福音書8章1-15節

良い地に落ちたのは、御言を聞いたのち、これを正しい良い心でしっかりと守り、耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである。」  ルカ8章15節

序 論)イエス様は、十二弟子や何人かの婦人たちと共に町々村々を巡回されました。そして、神の国の福音を宣言して歩かれました。イエス様が「種まきのたとえ」を通して伝えようとされたことは…

本 論)1み言葉の種を蒔き続けられるイエス様
  イエス様は弟子たちに向かって「あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが…」(10)と言われます。「奥義」は英語ではmysteryと訳されています。あるときまでは隠されていたが、その後明らかにされるもの、という意味があります。神様のうちに秘められた計画があったけれども、明らかにされるときがやってきます。イエス様のたとえ話を聞き、イエス様に従っていけば、その計画が明らかになり神の国の奥義も明らかにされていきます。

しかし、このときの弟子たちは本当に神の国の奥義を悟  ることができたでしょうか。大勢の群衆たちは分かりませんでした。残念ながら弟子たちも悟ることができませんでした。
11節以降の箇所で、イエス様はたとえ話の意味を説明して下さいます。「道ばたに落ちたのは、…。」(12節)
ある牧師は、この言葉を聞くと、ユダのことを思い浮かべてしまうと言われます。イエス様が十字架にかかられる前に「…ユダにサタンがはいった。」(ルカ22章3節)と聖書は告げます。ユダはサタンにそそのかされて、主イエスを裏切り、イエス様を引き渡してしまいました。み言葉を聞いていたはずなのに、悪魔がやってきてみ言葉を奪い取ってしまったと聞くと、まさにユダのことではないかと思わされます。
「岩の上に落ちたのは…、」(13節)。イエス様の十字架のときに、他の弟子たちはイエス様を見捨てて逃げ出してしまいました。試練の時が来ると信仰を捨てる人たちとはまさに弟子たちのことを言われていたのだと示されます。
このときの弟子たちは神の国の奥義を悟ることができませんでした。本当に悟ることができたのは、イエス様が十字架にかかられ、三日目に復活されて弟子たちの前に現れて下さった後でした。
このたとえ話の中の「種をまく人」は良い土地だけでなく、道ばた、岩の上、いばらの間にも落ちるようなまき方をしました。惜しみなく種をまくのです。まく人は、イエス様を表わしています。主イエスが神の言葉、み言葉を惜しみなく私たちに語って下さっているみ姿が、種をまく人にたとえられています。そして、主は「聞く耳のある者は聞くがよい。」(7節)と大声で言われました。
イエス様のこの大きな御声に応えた者たちが、主の十字架の死と復活の後に次々と起こされてきました。「良い地に落ちたのは…」(15節)。「正しい良い心」は、み言葉を聞くための心構えです。惜しみなくまかれる神の言葉の中に、神の国の奥義がある、そのことを信じて、み言葉を聞く心です。
「しっかりと守り」は、まかれたみ言葉を自分の内に留めておく、保っておくことです。自分自身の努力によって良い地になるのではなく、神の言葉を信頼して、その言葉を聞き続けていきましょう。

2,私たちが良い地で種を受け止めることができるように
  イエス様が復活された後、多くの人たちが信じ、救われ初代教会が誕生しました。その頃に書かれたのが、新約聖書の中の福音書であり、手紙です。初代教会の人たちにとって、「神の国の奥義」はもう隠されたものではありませんでした。使徒パウロが書いた手紙が告げているように、「奥義」とは、「十字架につけられたキリスト」(Ⅰコリント2章2節 p.257)であり、「あなたがたの内にいますキリスト」(コロサイ1章27節 p.315)です。つまり「神の国の奥義」とは、キリストご自身のことであり、十字架にかかられ、復活され、今も生きておられるキリストです。
神様は、イエス様を通してみ言葉の種をまかれただけではなく、独り子イエス様をも惜しみなく私たちに与えて下さいました。イエス様は、ご自分を一粒の麦にたとえて語られました。「一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。」(ヨハネによる福音書12章24節 p.161)
この言葉通り、イエス様ご自身が、地に落ちて死んで下さいました。その結果、多くの実を結ぶようになりました。救い主イエス様を信じ、罪から救われ、キリストを内に宿して、新しくされた人たちが今に至るまで多く起こされてきたのです。
今も、心が道ばたや岩の上やいばらのような罪人である私たちに、イエス様はみ言葉の種をまき続けて下さっています。私たちもかつては、み言葉を全く受け入れようとしなかったり、一旦受け入れても試練によってそれが枯れてしまうようなことがあったかもしれません。また時には、生活の心づかいや富や快楽にふさがれてしまうことがあるかもしれません。しかし、そのような私たちの弱さと罪を全部、背負ってイエス様は十字架にかかって死んで下さいました。そして、主イエスは、復活して今も生きておられ、聖書を通して忍耐強くみ言葉を語り続けて下さっています。

結論)今回の個所の最後のところで、イエス様は「…耐え忍んで実を結ぶに至る人たち…」と言われました。「耐え忍んで」は、神の言葉である種が実を結ぶ時を忍耐して待つことです。畑の作物も、収穫の時まで忍耐して待つことが大事です。同じように「良い地」になるのは、私たちが自分の力でするのではありません。み言葉の種に本来備わっている力を信じて、それが実を結ぶことを忍耐して待つ者となることなのです。
私たちの歩みにはいろいろな試練が襲ってきます。人生の思い煩いに苦しむことも、富や快楽に心を奪われることもあります。イエス様が私たちに求めておられるのは、それらに打ち勝つ強い人間になることではありません。弱さを抱えている私たちが、み言葉の種を手放さずにしっかりと持ち続け、イエス様を仰ぎ見続けることです。
それによって私たちは良い地となり、み言葉の種は私たちの内で百倍の実を結び、私たちはそれを喜びの歌と共に刈り入れることができるのです。
イエス様は、今も種をまき続け、私たちの心を良い地に変え続けて下さっています。