「それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない。」 ルカ7章47節
序 論)イエス様を食事に招いたパリサイ人シモンの家にその町で、「罪深い者」と言われていた女性が入って来ます。彼女は、涙でイエス様のみ足をぬらし、髪の毛でぬぐい、口づけし、香油をぬりました。彼女の大胆な行為を見て、シモンをはじめその場にいた人々は驚きました。
シモンとこの女性に対して語られた言葉を通して、イエス様が伝えようとされたことは…
本 論)A.罪赦された者だから
シモンは、心の中で、この女性をさばき、イエス様を批判していました(39節)。
イエス様は、彼の思いを見通しておられ、一つのたとえ話によって彼に問いかけます。 (40-43節)。ある金貸しから、一人は500デナリ、一人は50デナリの金を借りていた。返すことができなかったので、金貸しは二人の借金を帳消しにしてやった。二人の内どちらが多くその金貸しを愛するだろうか、という問いです。1デナリは、当時、一人の労働者が一日働いて得る賃金です。どちらの人もその借金を帳消しにしてもらったのです。 シモンは、当然、多くの金額を帳消しにしてもらった人の方が、金貸しをより多く愛するでしょう、と答えます。このシモンの答えを確認した上でイエス様は、これこそが、今ここで起こっていることなのだと、語られました。(44-46節)
イエス様は「あなた」パリサイ派のシモンと、「彼女」この女性とを対照させて語られます。この家に入ったとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女性は自分の 涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは接吻の挨拶をしなかったが、この女性は私の足に接吻した。あなたは頭に油を塗ってくれなかったがこの女性は私の足 に香油を塗ってくれた。彼女は、私をこの家に招いたあなたよりもずっと真実な、心のこもった愛のもてなしをしてくれたのだ、と言われます。500デナリを帳消しにしていただいたのが、この女性です。50デナリの方がシモンです。それゆえに、この女性があなたより多く私に対する愛を示したのだと仰いました(47節)。
この女性が大きな愛でイエス様を愛したことによって、多くの罪が赦された、ということではありません。別の訳では、次のように訳されています。
「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。」
(47節 新共同訳)
「つまり、いま彼女が示した大いなる愛は、彼女の多くの罪がすべて赦されたとい
うことの、何よりの証拠なのだ。」(47節 柳生直行訳)
彼女は以前、別の場所でイエス様の言動を知り、その御人格に触れる機会があったのでしょう。こんな私をも主イエスがどれほど大きな愛で愛して下さり、罪を赦して下さっているかということを知りました。罪赦されたことへの感謝とイエス様への愛が、ここでの彼女の涙と具体的な行いとなって表れたのです。
B.罪赦された者として
パリサイ派のシモンは、イエス様のたとえを聞いて、自分が50デナリの借金を帳消しにしてもらった者である、イエス様のご愛と罪の赦しの恵みの大きさがまだまだ分かっていないものである、と自分の心を見つめたでしょうか。イエス様が語られたことを自分のこととして聞いたでしょうか。おそらく聞いてはいなかったでしょう。彼は自分は律法に従って正しい生活をしている、罪から遠ざかって生きている、だから罪はないと思っていました。
実はこのたとえ話は、あの人の罪とこの人の罪の大きさを比べてあちらの方が大きい、小さいということを語ろうとしているのではありません。私たち人間が神様に対して 犯している罪は、みな計り知れないほど大きなものなのです。私たちが、一生かかってどんなに努力しても、自分でそれを償うことはできないのです。
シモンは、自分に比べてこの女はどうしようもない罪人だと思い、それを理解できていないイエス様は預言者ではないと主を軽んじました。ここに彼の罪が表れています。 イエス様は、たとえ話をなさることを通して、シモンが自分の罪を認め、目の前におられるイエス様を救い主と信じ、罪の赦しを求めるようになることを願っておられました。 自分の罪を深く知る人ほど、それを赦して下さる神様の愛をより深く知り、自分も神様を深く愛するのです。逆に、神様が自分を愛して下さっていることを知れば知るほど、自分の罪をより深く知ることができます。最初は50デナリぐらいだろうと思っていた自分の罪が実は500デナリだったことが、いやそれ以上、計り知れないものだったことが分かってきます。それが独り子イエス・キリストの十字架の死によって神様が私の罪を赦して下さったことを知らされ、神様のとてつもなく深い愛を示されることで分かってくるのです。この神様の愛を知る中で、私たちは、主イエスを、より深く、より心から愛する者へと変られていきます。
イエス様は、この女性に罪の赦しを宣言されました。
「あなたの罪はゆるされた」(48節)。
そして最後にこう言われました。
「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」(50節)
「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい何者だろう。」(49節)と
周りの人々は考え始めましたが、この女性には分かっていました。このお方こそ
神の御子、私の救い主、罪を赦す権威をお持ちのお方だと。彼女がもっていたのはただ、イエス様により頼む信仰でした。
結論)この女性のように、イエス様のもとに行き、自分の罪を認め、十字架による救いを信じた者は罪赦された者です。イエス様は、もう私たちの過去の罪は問われません。
信じる者に、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい。」と御声をかけて新たに送り出して下さいます。教会は、聖書の言葉、キリストの言葉、そして罪の赦しの宣言を聞く所です。「安心して行きなさい。」は、「平安のうちに行きなさい。」とも訳されます。主にある平安を与えられた私たちが今、そしてこれから、イエス様の恵みとご愛に応えてどのように歩むかを主は見ておられます。私たち一人ひとりが主イエスを愛し、愛と赦しの共同体である教会と遣わされる所で主と人々に仕えさせていただきましょう。