コロサイ人への手紙3章12-17節

キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。…。キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。…」
コロサイ人への手紙3章15-16節

序 論)コロサイ人への手紙は、使徒パウロが小アジアの町コロサイ(現在のトルコ共和国領内)の教会の人々に対して書かれた手紙です。手紙の前半、1章と2章は、イエス様による救い、福音の内容、神様の私たちへのご愛、イエス様の恵みがどれほど大きいものであるかを語っています。3章と4章は、福音の教えを示した後、主の恵みに応えて私たちはどう生きるか、何をしたらいいのかを伝えています。3章の前半にはクリスチャン生活の三つの原則が述べられています。①上にあるものを求めること(1-4節)。②「古い人」を脱ぎ捨てること(5-11節) ③キリストの「愛の衣」を身に付けること(12-17節)です。「着る」は「性質を受け継ぐ」という意味です。「主イエス・キリストを着なさい」(ローマ人への手紙13章14節 p.251)は、「キリストの愛を受け継ぎなさい」「愛においてキリストに似た者となりなさい」という願いが込められています。エペソ人への手紙では「新しき人を着る」と言われています。「すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、 心の深みまで新たにされて、 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。」(エペソ人への手紙4章23-24節 p.305)
キリストの愛をいただいて新たにされた私たちが求めることとなしていくことは…

本 論)1.キリストの平和が心を支配するように

イエス様を信じて救われたキリスト者はキリストによって、それまで敵対関係であった神様と和解しました。「そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。」(コロサイ人への手紙1章20節 p.315)
そして、人と人との間でも、愛によって、平和をつくり 出すよう、主から召されています。
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである。」
(マタイによる福音書5章9節 p.5)
「キリストの平和」(15)には二つの意味があります。第一にそれは「平安」を指します。罪人である私たちが、キリストによって、罪ゆるされて、神様との和解をいただき、
神様との親しい関係の中で生きることができる、それがキリストによって与えられる「平安」です。第二は、人と人、グループとグループ、また大きな範囲では、国と国との関係における「平和」です。キリストによって与えられる罪の赦しの「平和」は、個人的なもの、内面的なものに留まっているものではありません。キリス トによって罪赦され、愛と「平安」をいただいている私たちは、他の人たちに対して、寛容であることができ、人々の間に「平和」をつくり出すことができます。人と人との平和は神様との平和から生まれます。
グループとグループの間の平和や国と国との平和というと、私たちの力の及ばないことにように思われますが、しかし、私たちは個人と個人との関係を正しくしていくことによって平和への第一歩を踏み出していくことができます。私たちができることはほんの小さなことですが、それは、どこかで必ず実を結びます。なぜなら私たちが求めている平和は「キリストの平和」、イエス様が与えて下さる平和、主イエスによってやがて完成される平和だからです。神様は、神との平安、神との交わりに生きる者を平和の道具として用いて下さいます。
さらに聖書は「いつも感謝していなさい」と勧めます。神様が、キリストを通して、私を愛して下さった愛を知り、互いに仕え合い、愛し合うとき、私たちは、神様にも他の人に対しても感謝の心が溢れてきます。

2.キリストの言葉を豊かに宿らせる
  「キリストの言葉を、あなたがたのうちに豊かに宿らせなさい。…」(16節)
「キリストの言葉」はイエス様ご自身が語っておられる言葉という意味と、聖書がイエス様を証ししている言葉という意味があります。
イエス様は「この聖書は、わたしについて証しするものである」(ヨハネによる福音書5章39節 p.144)と言っておられます。旧約聖書、新約聖書、聖書全体がキリストを語り、キリストを証ししているのです。この16節の言葉のように、聖書の言葉、キリストの言葉を心に蓄えていきましょう。  聖書のどの箇所を読むときも、そこにキリストを見出していく、そんな気持ちで聖書を読みたいと思います。ただ聖書の言葉を知識として知るのではなく、言葉を通して、霊的に、人格的に主イエスとの交わりを深めてまいりましょう。聖書の言葉を自分のうちに宿らせるとは、どういうことでしょうか。イエス様の母、マリヤが天使ガブリエルのみ告げを聞いたとき、「このあいさつは何の事であろうかと思いめぐらしていた」(ルカ1章28節 p.83)とあります。マリヤは神の言葉を心に受け止め、そのみ言葉を黙想しました。そして、「わたしは主のはしためです。どうぞ、あなたのお言葉通り、この身になりますように」と言って、神の言葉を受け入れ、御子イエス様を宿しました。マリヤは御子を宿す前にみ言葉を心に宿らせました。彼女は聖書の言葉をそれまでも心に蓄えていました。そして約束されたみ言葉が成就されることを知り、神への感謝が賛美の言葉となって溢れてきたのです。
「キリストの言葉を豊かに宿らす」とは、マリヤのようにみ言葉を思いめぐらし、黙想し、自分の心のうちにみ言葉を蓄えていくことです。私たちは神の言葉によって知恵が与えられます。そして、キリストの愛を土台として互いに教え合い、訓戒し合い、心から神様をほめたたえることができるのです。

結論)聖書を読み、礼拝で聖書のメッセージを聴き、黙想すること、そしてもう一つ大切なことはみ言葉を行うことです。(ヤコブの手紙1章21-22節 p.360) 神様が私たちの心に与えて下さった、み言葉を素直に受け入れると共にそれを実行することが教えられています。神の言葉を行うと言っても、誰も一度にすべてを実行することはできません。一度に一つずつ取り組んでいけばよいのです。10のことを学んでそのうちの一つを行うことは100のことを学んで一つも行わないよりもずっとよいのです。み言葉に生かされ、励まされ、導かれる歩みをなしてまいりましょう。