ルカによる福音書2章22~39節

「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。…」                ルカ2:29-30

     飼い葉おけに寝かせられていた嬰児のイエス様を最初に礼拝したのは、当時一番、貧しい立場にいた羊飼いでした。 その後、ベツレヘムからエルサレムに行ったヨセフとマリヤは、イエス様を、罪ある人間と同じように、神殿で主に聖別された者とするための犠牲をささげました。祝福を願って子供を主にささげる儀式でした。それは、レビ記12章に記されている、最も貧しい者がささげる犠牲です。(レビ記12章8節 p.150)
神殿で、彼らは、シメオンとアンナに出会います。シメオンの年齢は書かれていませんが、84歳のアンナと同じように高齢者だったと思われます。シメオンは…

本 論)A.聖霊に導かれて主イエスに出会った

シメオンは、イスラエルが慰められるのを待ち望みつつ生きていました。イスラエルが慰めるときとは、イスラエルの国に救い主が来られるときです。彼は「主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けて」(26)いました。  そして、イエス様に出会って、腕に抱き、神をほめたたえて「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりにこの僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。」(29-30)と賛美しました。ここでシメオンが「あなた」と呼びかけているのは主なる神様です。それは、私たちが自分の力で、人との関係の中で獲得するものではなくて、神様が与えて下さるものです。神様と自分との間に「あなたと私」という関係が与えられ、その神様によって、安らかさ、平安、慰めが与えられるのです。シメオンはその神様のみわざを見ました。彼は何を見たのでしょうか。それは両親に抱かれてエルサレムの神殿にやってきた赤ちゃんのイエス様でした。この赤ん坊を見て、シメオンは「わたしの目が今あなたの救いを見た」と言ったのです。アンナも同じです。彼女も、両親に抱かれているイエス様を見て、神様を賛美し、「そしてこの幼な子のことを、エルサレムの救を待ち望んでいるすべての人々に語りきかせた。」(38)のです。つまり、この幼子こそ私たちが待ち望んでいる救いをもたらす方、メシアだと語ったのです。
彼らは赤ん坊である主イエスを見てどうしてこのように語ることができたのでしょうか。この赤ん坊こそイスラエルに慰めと救いをもたらすメシアだとどうして分かったのでしょうか。彼らが幼子イエス様のお姿の中にそれらしいしるしがあった、ということではありません。彼らが赤ん坊のイエス様を見て、このように語ったことそれ自体が一つの奇跡、神様の不思議なみわざです。それは、聖霊の示しによるものでした。(「聖霊」25節、26節 「御霊」27節)

B.十字架を預言した

シメオンが見た救いはイスラエルだけの救いではなく、万民の救いでした。(31-32) このシメオンの賛美の言葉は、イザヤ書49章6節の言葉でした。(p.1015)  この神様の救いが実現するために、後に主イエスは苦しみを受けられます。そのことをシメオンは霊的に示され、母マリヤに、祝福と共に語りました(34-35節)。
イエス様によって、人間は倒され、そしてそのみわざを通して立ち上がらせられるのです。主イエスは、「また、反対を受けるしるしとして、定められています。」 人々は イエス様を拒み、十字架につけるのです。母マリヤは「つるぎで胸を刺し貫かれる」ような苦しみを受けます。しかし、そのことを通して主イエスによる救いは実現しました。 なぜなら、救いが実現するためには「それは多くの人の心にある思いが、現れるように」なければならないからです。その思いとは、私たちの人間の罪です。神様に従い、み心を行うことを求めるのではなく、自分の思い、欲望を満たすことを第一とし、貪欲に支配されて生きている、そのためにまことの拠り所である神様を見失い、隣人を信頼することもできなくなり、疑心暗鬼の中で右往左往してしまう、そういう私たちの罪が、イエス様のみ姿と主イエスにお出会いする人たちの姿を通してあらわになるのです。そして、それがあらわになると同時に、その罪を神様の独り子イエス・キリストが背負われ、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受け、私たちのために身代わりとなって死んで下さったことも明らかになるのです。そのことによって、神様が万民のために整えて下った救いが実現しました。
シメオンやアンナは、なぜ、聖霊に導かれて主イエスにお出会いし、この方が救い主であると示され、主の救いを見ることができたのでしょうか。
シメオンもアンナも、「救い主よ、このイスラエルにどうか来て下さい。」と切なる祈りをささげていました。そのような祈りを共にささげる祈り会もあったのではないかと言われています。そして、彼らはイスラエルのため、異邦人のため日々とりなし祈っていました。
また、二人は、旧約聖書の預言書等のみ言葉を深く学び、黙想していました。やがて来られる救い主は、当時、ユダヤ人の中で期待されていたイスラエル民族を救う、政治的軍事的な力を持つメシアではなく、真の救い、霊的な救いをもたらして下さるメシアであること、そしてその救いは異邦人にも及ぶ万人の救いであることを彼らは示されていました。そして、喜びと希望を持って救い主を待ち望んでいました。彼らはイスラエルと異邦人の救いを祈ってきたその答えを、自分の目で見る祝福にあずかったのです。
私たちにとっても他の人たちと共に祈る「祈り会」とただ一人、神様の前に出て祈る「密室の祈り」の両方が必要です。時には、シメオンやアンナにならって、密室で時間をかけて、神様を待ち望み、聖書からみ言葉をいただき、祈るときを持ちましょう。

結論)私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって神様がこの救いを私たちのために既に実現して下さったことを知らされています。この救いをみ言葉によって示され、その救いにあずかることのしるしである洗礼の恵みにあずかり、その恵みにあずかった者たちが主イエスとの生きた交わりの中に歩んでいます。そのようにして私たちも、この目で、神様の救いを見ているのです。そこに、真実の平安、心の満たしがあります。私たちも平安の中で、歩むことができるし、その平安の中で、この世を去り、天の御国に移されることができるのです。
今年も主を礼拝し、賛美するときを共にもってまいりましょう。礼拝を通し、新たに主とお出会いし、主のご再臨を待ち望みつつ歩みましょう。