また彼らに言われた、「人の子は安息日の主である」。 ルカ6章6節
ルカによる福音書6章の前半は前の章に続いてイエス様とパリサイ人たちとの論争が記されています。論争の焦点となったのは安息日問題でした。パリサイ人たちは安息日にしてはならないことに細かい注意を払っていました。しかし、イエス様は安息日にすべきことを教えられたのです。
本 論)A.神を礼拝すること
問題になったのは、弟子たちが安息日に「穂をつみ、手でもみながら食べていた」(1)ことでした。安息日に、麦の穂を摘み、「刈り入れ」(脱穀の仕事)をしたとみなされたのです。パリサイ人の質問に対するイエス様のお答えは、サムエル記上21章の出来事を告げることを通してなされました。(サムエル記上21章2節~ p.415)
神様はダビデをイスラエルの王として選び、王位を与えようとしておられました。しかし、そのとき、サウル王によって命を狙われ逃亡の身でした。ダビデが供えのパンを食べて力づけられ、命を救われることは神様の御心に適うことです。そのパンがそのために用いられることは、律法に反することではなく、神様が喜ばれることでした。
神様がイスラエルの民に律法をお与えになったのは、民が神の民として、その祝福の内に歩み、神様の守りと導きを受け、神様を礼拝し、仕えて歩むためでした。
イエス様は、ここで、神様に王として立てられたダビデが自分の判断で、律法では食べてはならないとされていたパンを食べ、供の者たちにも与えたように、ご自身も、弟子たちの空腹を満たしてやるために、安息日にはしてはならないとされていることでも行ってよいのだ、という意味を込めてダビデの故事を引用して答えられました。
そしてパリサイ人を本当に怒らせたのは、イエス様の次の宣言でした。
「人の子は安息日の主である。」(5)
「人の子」というのは主イエスがご自分のことをおっしゃるときに使われた言い方です。イエス様は安息日の意味を正しく教え、それを完成するために来られたのです。
「主」の反対の言葉は奴隷です。このときのユダヤ人たちは安息日の奴隷のようになっていました。安息日にこれをしてはいけない、これならしてもよいというように本来の目的からはずれた細かい規則の奴隷のようになっていました。
「安息日」の中心はイエス様です。安息日(私たちにとっては「主の日」)に大切なのは、神様を主とすることです。イエス様を主とすること、神様を神様として礼拝することです。
それは義務感や規則だからではなく、初代教会の人たちが困難な状況にも関わらず喜んで礼拝したように、喜びと感謝をもって礼拝する。礼拝を通して、父なる神様と御子イエス様がなして下さったこと、与えて下さった恵みを心に留め、神の言葉を聴き、神の安息にあずかること、これがキリスト者にとって、本当の安息日です。
B.人を愛し、仕えること
さらにイエス様は安息日に会堂で病を癒されました。普通、病を癒すのは医者の仕事です。でも医者も安息日には働くことをしませんでした。死の危険がある場合を除いて、安息日には病人は見ませんでした。ところがイエス様はそれにも関わらず、安息日に右手の萎えた人を癒されました。この人が右利きならば、かなり不自由をしていたでしょう。
イエス様は、癒しのわざを行なわれ、ご自身が安息日の細かな規定を破ってしまわれた のです。癒される前に、この人をわざわざ真ん中に立たせられたイエス様は、「怒りを含んで彼らを見まわし」(マルコ3章5節 p.54)ました。
安息日であることを理由にイエス様を陥れようとするパリサイ人たちの、病人の心身を軽んじる冷酷さと、この人を憐れまれる主イエスの御愛がぶつかりあっているように感じられます。「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」(9)イエス様が問われたことは、二つとも何かを「する」ことでした。パリサイ派の人たちは、安息日は何も「してはならない」日だと規定していました。しかし、イエス様は安息日は、恵み深い神様に感謝し礼拝をささげ、神様の御心を尊び、我が心とさせていただき、人を愛し仕える時なのだと言っておられるのです。
イエス様は、このようにパリサイ人たちに真っ向から挑戦する問いを投げかけた上で、右手の萎えた人を癒されました。それを見た彼らは、11節にあるように、「そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた」のです。「どうかしてやろう」とは殺してしまおうということです。安息日の規定をめぐるこの対立によって、パリサイ派の人々の中にイエス様に対する殺意が生まれたのです。イエス様がご自分を安息日の主だと宣言されたことが、十字架の死へとつながっていったのです。
結論)
イエス様の十字架の死によって、私たちは罪の奴隷の状態から解放され、まことの安息が与えられました。神様も隣人も憎んでしまう罪に支配されていた私たちが、罪赦され、神様と隣人を愛して生きる者へと変えられました。十字架にかかって死んで下さり、復活されたイエス様こそ私たちを本当に罪から解放し、まことの安息を与えて下さる安息日の主です。
「年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」 (イザヤ書40章30-31節 p.998)
神様を礼拝し、神の言葉を聴き、新たな力を得る、これが本当の安息です。喜びをもって神様を礼拝し、神の安息にあずからせていただきましょう。