夜が明けると、弟子たちを呼び寄せ、その中から十二人を選び出し、これに使徒という名をお与えになった。
ルカ6章13節
イエス様は、山に登って徹夜の祈りをしてから十二使徒を選ばれました。いずれはパリサイ人たちの手に陥ることを自覚された主イエスは、「神の国の福音」を正しく理解し、それを他の人々に伝える使命をもつ使徒を必要とされたのです。イエス様の祈りと選びが示していることは…
本 論)A.主は私たちのためにも祈っておられる
イエス様が選ばれたのは特別に優秀な人たちだったのではありません。十二人の中には当時の「取税人」や「熱心党員」もいました。後に主を裏切ることになるペテロの弱さやユダの裏切りを予測されながらもあえて彼らを選ばれたのです。「使徒」は「遣わされた者」という意味の言葉です。マタイとマルコ福音書では、選ばれた十二人の弟子が「使徒」と呼ばれている所はほとんどありません。彼らが「使徒」と呼ばれるようになったのは、後のペンテコステの出来事によって彼らが聖霊の力を受けて伝道へと遣わされたことによってです。ルカがこの福音書の続きとして書いた書物が「使徒行伝」です。この使徒たちが宣べ伝えた信仰が教会の信仰でありそれを受け継いでいるのです。毎週礼拝において唱えている信仰告白が「使徒信条」と呼ばれているのも、それが使徒たちの信仰を伝えているからです。
ここで彼らが「使徒」と呼ばれているのは、イエス様がお選びになった十二人が後に教会の信仰の礎になることを示しています。この十二人の使徒たちの選びを語るルカ福音書の箇所が他の福音書と違っているもう一つの点は、イエス様が十二人を選ぶのに先立って、「夜を徹して神に祈られた」(12)ことを告げている点です。ルカ福音書は、イエス様がその歩みの大切な節々で、父 なる神様に祈り、交わりを大切にされたことを語ります。
後に十字架の上で息を引き取る直前に叫ばれた「父よ、わたしの霊を御手に委ねます。」(22章47節)の言葉、これも父なる神様への祈りでした。イエス様の救い主とし ての地上の歩みは、祈りに始まり祈りに終わったのだとル カは語ります。そして「夜を徹して祈られた」のは、主イエスが捕らえられる直前の「ゲツセマネの祈り」と今回の 箇所のみです。それは十二使徒の選びがいかに大切な、深い祈りによってなされたかが示されています。
今も、イエス様は、父なる神様の右の座で私たちのためにとりなし祈っておられます。
「だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみが
えって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。」 (ローマ人への手紙8章34節 p.244)
イエス様の地上の生涯でなされた祈り、今、天においてなされている祈りに私たちは支えられています。 私たちが、教会に来ることができたのも、イエス様を救い主として信じることができるのも、イエス様の祈りと選びがあるからです。イエス様が私たちのために祈って下さり、選んで下さったのです。
B. 主イエスのみそばに行き、遣わされる
イエス様が十二人を選ばれお立てになったのは、まず「彼らを自分のそばに置くため」(マルコ3章14節)でした。イエス様は、彼らといっしょに生活されました。使徒たちは、イエス様との交わりを深め、主から直接、指導を受けました。
私たちが、礼拝をささげたり、日々、聖書を読み、祈るときは主のみそばに行き、主からみ言葉をいただき、交わりを深めるときです。それらを通して私たちはさらにイエス様の御愛の深さ、主イエスがどれほど素晴らしいお方であるかを知ります。「弟子」は師から「生涯学び続ける人」です。私たちは生涯、「わたしに学びなさい」(マタイ11章29節 p.17)と言われるイエス様から学び続けます。
イエス様と使徒たちが共に山を下りて平らな所に立つと、大勢の弟子とおびただしい群衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、またツロとシドンの海岸から教えを聞くため、また病気を癒してもらったり、汚れた霊を追い出してもらううために押し寄せて来ました。
イエス様は彼らの病気を癒やし、悪霊を追い出されました。イエス様は、ご自分の中から出る大いなる力によってそのお働きをなされました。(17-19節)
主が十二人を選ばれたもう一つの目的は「宣教につかわす」(マルコ3章14節 p.55)ためでした。弟子たちがイエス様と共に山から下り、宣教に励んだように、私たちも礼拝をささげた後、それぞれの生活の場所に遣わされていきます。
「使徒」は「使命を与えられて、キリストを代表して遣わされて行く人」です。私たちは、キリストの弟子であり現代の使徒でもあるのです。
(結論)
現代の使徒として立てられた私たちは、どんな務めを果たすのでしょうか。
父なる神様に祈りながら歩まれたイエス様にならい、私たちも神様に祈りながら歩みます。そして日々、遣わされた場所で、イエス様とお出会いした喜びと主の御愛を証ししていきます。打ちひしがれ勇気を失っている人を慰め励ます、自分に委ねられたお金を主のために用いる道があれば、喜んでそのために用いる、等々使命の度合いや分野は、違っても、それを使命とする「十二人」を、今も祈られ、呼び集め続けておられるのです。