だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。
Ⅱコリント5章17節
日本経済新聞の人気連載コラムに「私の履歴書」という記事があります。著名人が出生からその半生を描<履歴書風の自伝です。今朝お話しするのは私の履歴書<救い篇>で、その履歴書はⅡコリント5:17に基づいています。
1、キリストとの新しい出会い
よく人生は出会いが肝心と言います。私の履歴書では著名人が人生において出会った恩師や友人などを通して、人生が大きく変化をしたとあります。それを私の人生に当てはめるなら、キリストとの新しい出会いほど私に大きな影響を与え、生き方や考え方を根本から変えたお方はいません。なぜかと言えばキリストは長谷部裕子を造った第一原因者であり、私の欠点や短所をことごとく知っておられるにも関わらず、無条件で愛してくださるお方と知ったからです。このキリストとの出会いが、わたしの人生と永遠を決定づけたのです。キリストを知るまでのわたしは、自分が価値ある人間だと思える根拠が持てませんでした。でも心のどこかで誰かのためになる価値ある生き方をしたいと思っていました。マザーテレサや公民権運動の指導者キング牧師の生き方に魅かれていましたが、聖書を読むとか教会に行くという行動には至りませんでした。満ち足りた人生を送るためにと自分自身を変える新しい出会いを探していました。
ところが現実は競争社会にくたびれてしまい自信を失うばかりでした。 30代に入ると結婚や専門職ににつく友人を見て、自分だけどうしてこうなのだろうと落ち込みあせっていました。そんな時あるきっかけで教会に行き、聖書のⅡコリント5:17を初めて読んだとき大きな衝撃を受けました。そこには神様は世の中の基準と違いその人の能力や実力ではなく「だれでも」イエス・キリストにあるならば、その人を全く新しくされると書かれてありました。
2、新しいいのちに満たされて
それまでわたしは二コデモのように「人は年をとってから生まれることがどうしてできますか?」(ヨハ3:4)と思い込んでいました。人生の失敗の原因は浅はかで能力が足りないせいだと自分を責めました。しかし教会に行って福音を聞くと原因のすべては罪からきていて、最終的な罪の結果は死であることを知りました。今の的外れな人生をやり直すには、自分の罪を認め神様に告白して赦しを祈ることでした。キリストの十字架の意味は、わたしの受けるべき神のさばきを神の御子イエス様が身代わりに受けられたことを知って、人の罪の底知れぬ深さとそれよりはるかに深い神の愛に心打たれました。
神はイエス・キリストを通して、罪の深みに落ちた人を救い上げて、天の高みに引き上げて神の子どもとして受け入れてくださることが無性に嬉しかったのです。わたしには価値がないと自己不信に陥っていた者が、神様からこんなにも赦されて愛されるとわかりました。わたしが「キリストにある」(17)生きたつながりを日々もつことで、神の新創造のみわざは始まることに慰められそこに希望がありました。イエス・キリストの救いを受け入れて1995.4.16のイースターに洗礼を受けて、新しいいのちに満たされ価値観が神の正しい視点に戻されたことで、わたしの内で言葉に表すことのできない何かが完全に変わりました。みことばの通り「古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなった」のです。
3、新しい使命を与えられて
わたしはキリストと新しく出会ったことで、十字架によって過去の罪一切が赦されて、神のみまえに罪無しとされて新しい人に生まれ変わりました。かつては「生まれながらの怒りの子」(エペ2:3)であったのに新生と同時に神と和解が成立したのです。
「神の和解」の内容は、人が罪を犯すことで神との不和の原因を作ったにも関わらず、和解の方法も機会も神が計画し神がキリストの犠牲というお膳立てをしてくださったのです。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされ」(21)とあるように全く罪と関わりのない神の子イエスに、あたかも重罪の犯罪人同様に十字架を負わせ、自分で償うことのできないわたしたちの罪を肩代わりさせました。
神と和解した人間に神はご自分の新しい使命を与えられました。神はわたしたちを「キリストの使者」として造りかえることで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのです。(19)神が福音によって新しくしてくださった人生を喜び、与えられた尊い使命に生きる者にならせていただこうではありませんか。
かつては「罪人のかしら」(Ⅰテモ1:15)であった者を、神は救い上げ「キリストの使者」にまで任命されたのです。
神様はわたしを救うことで私自身の人生のすべてを輝かせ新しくされました。救われる前は年を取ることに恐れがあり将来が常に不安でした。救われた今は若い頃に戻りたいとは露にも思いません。今が一番幸せで未来はますます明るく天国は日々近づいています。と言っても健康は万全ではなく、60歳を間近に控えた今あちこちに支障をあることも事実です。しかし神様が与えられた救いには、罪の赦し、新生、神との和解、永遠のいのちなどいくつもの側面があり、どれもがかけがえのない宝なのです。それに加えて教会と言う神の家族、クリスチャンはわたしの心の友になり祈りの友なのです。
救いには、わたしたちが今後予想される試練一老い、病苦、親しい人との別離、そして死を乗り越える力があり、日常のささやかな営みの中に、神の恵みを数える事ができるのです。
自分が救われてから家族親族の救いのために祈って、力不足ながら「キリストの使者」としての務めをしてきました。数年前より入退院を繰り返していた従兄弟に福音を語る機会を得て、主として信じ受け入れる決心され、先月の18日に病床洗礼を授ける恵みに預かりました。洗礼式から召されるまでは14日間という短い信仰生涯でしたが、今は病魔からも解き放たれて、安らかに主のふところで憩っていると思うと、喜びでいっぱいです。天国での再会が楽しみです。
若い頃、いつか誰かのためになる価値ある生き方をしたいと思っていた、小さき者の願いを神は聞き入れ、人の永遠を決定づける伝道者という尊い仕事に、召してくださった主を心から賛美し救いを心から感謝します。