ルカによる福音書5章33~39節

「まただれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。
…新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。」
             ルカ5章37-38節

  ルカによる福音書5章27節以降の最後の部分から次の6章にかけて、
イエス様とパリサイ人たちとの間で論争が
あったことが語られています。彼らは、取税人や罪人たちと一緒に食事をしているイエス様を非難し、弟子たちはなぜ断食しないのかと尋ねました(23)。それに対して主イエスが言われたことは…

本 論)A.主イエスと共に生きる喜び
 旧約聖書では、一年に一回だけ断食することを命じていました(レビ記16章29節 p.160 「身を悩まし」が食を断つこと)。これは、神の前に自分の罪を悲しむ気持ちを込めて行われました。預言者イザヤは、形式的な断食の偽善を戒め、断食の本当の目的を告げています。(イザヤ書58章1-7節 p.1028)
しかし、主イエス様が来られた時代、かつてイザヤが戒めたように断食が形式的、義務的に行われていました。パリサイ派の人々は、週二回、断食していましたが、それを人に見せたり、自分がそれを誇るために行っていたのです。
 イエス様は、ご自分のことを婚礼の花婿にたとえて、彼らに答えられました(34)。「花婿が一緒にいるのに…」、神の御子イエス様が、この地上に来て下さり、弟子たちや取税人、罪人たちと共にいて下さるのは、彼らにとって婚礼のとき以上に大きな喜びの時でした。そんなときに、断食することができるだろうかと言われます。
 さらに「しかし、花婿が奪い去られる日が来る。その日には断食をするであろう。」(35)と言われました。これはイエス様の十字架の死を表しています。そのときには弟子たちも断食することになります。その断食は悲しみの表明でした。それゆえ、その後の教会はイエス様の受難を覚えて断食し、祈るときを持ってきました。
 そして、私たちが、心に覚えることは、主イエスの十字架の苦しみと死によって、私たちの罪が赦されたことです。私たちが立派な良い人間になることによってではなく、また私たちが熱心に断食して悔い改めるからでもなく、神様の独り子イエス様が、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪は赦されたのです。主イエスを信じることによる罪の赦しの喜びを私たちは与えられています。
今も、イエス様(花婿)は、
私たち(婚礼の客)を神の国(婚礼)に招き入れて下さっています。そして、イエス様が私たちと一緒にいて下さり、今まで知らなかった新しい喜びを与えて下さるのです。

B.主イエスにある新しい命
 さらにイエス様は二つのたとえを話されます。いずれも新しいものと古いものが衝突するという話です。一つ目は服のたとえです。古い服が破れたとしたら、その部分に継ぎ当てをしなければなりません。しかし、新しい服を破って、継ぎ当てをする人はいません。それは似合わないし、新しい服も破れてしまいます。
 二つ目は、ぶどう酒のたとえです。当時は、ぶどう酒を入れる皮袋がありました。それは動物の皮から作られていました。古い皮袋は長く使用されると伸びきってしまいます。そこに新しいぶどう酒を入れると発酵力が強いので革袋は破れてしまいます。しかし、新しい革袋は弾力性に富んでいるので持ちこたえることができます。二つのたとえ話は、古いものと新しいものとが相容れないということが言われています。
  新しいものとは、主イエスを信じる者たちの信仰のことです。古いものは、行いによって救われようとするパリサイ派の人々の信仰を表しています。「古いのがよい」と考えている人たち(39)は、自分たちの考えや信仰に固執して、イエス様の教えを受け入れることができない人たちのことを表しています。
   パリサイ派の人たちの信仰が象徴しているのは、自分の力で悔い改めて、努力や精進によって救いを得、正しい生き方をしようとすることです。でも、それでは、罪から救われることもなく、心もきよめられません。自分の実績を誇ったり、人をさばいたりする心を生み出してしまうだけです。

  私たちは古いぶどう酒(今までの考え方や価値観)の方を好む傾向を持っています。その方が慣れ親しんでいるから安心できるし、落ち着くからです。でも、そのままでは、イエス様が私たちに与えようとしておられる新しい命と喜びを十分に得ることができません。イエス様は、新しいぶどう酒(福音)を信じ、主ご自身を心に受け入れてほしいと願っておられます。

  私たちは、主イエスを信じることによって、罪の赦しの恵みの中で、新しくされる喜びに生きることができます。
 新しいぶどう酒が、どんどん発酵し、沸いてくる力が古い皮袋を破ってしまうように、私たちは死に打ち勝たれ復活されたイエス様による新しい命に生かされています。

結論)弟子たちが、断食ではなく、食べたり飲んだりする宴会に象徴される喜びに生きることができたのは、彼らを招き、悔い改めを与え、新しく生かして下さるイエス様が共におられたからです。
 今も、聖霊によって主イエスは私たちと共にいて下さいます。私たちは生きておられる主イエスと出会い、交わりを深めていくことによって新しくされる喜びにますます生きることができます。主イエスとの出会いと交わりをさらに求めてまいりましょう。
 新しいぶどう酒は、神様が与えて下さる新しい恵みとも解することができます。主イエス様は、常に私たちに新しいことをなさろうとしておられます。イエス様が与えようとしておられる新しいぶどう酒(恵み)を、新しい皮袋(心)で受け止めてまいりましょう。