「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である。 わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」 ルカ5章31-32節
当時のユダヤの取税人は、敵国ローマの手先となって、重税に苦しむユダヤ人たちから税金を取り立てる仕事をしていました。その一人取税人レビ(後のマタイ)が収税所に座っていました。これはただ座っていたのではなく、通行税を取るために人々を監視していたのです。そこにイエス様が来られました。主は彼にいきなり声をかけ招かれます。レビは…
本 論)A.主の招きに応える
レビが、主イエスの招きを受けたのは、彼が何か人目を引くような特別なことをしたからではありません。彼は、ただ座って、いつものように税金を集める仕事をしていただけです。何か善いことをしたから、イエス様に声をかけられたのではありません。ただ一方的にイエス様のほうから声をかけられ、招いて下さったのです。
収税所に座っていたレビが「わたしに従ってきなさい」と言われただけで主に従ったのは、自分が罪ある者であることを認め、イエス様が他の人とは違う特別なお方であり主の自分に対する愛を感じたからでしょう。同胞から「ローマの手先」と言われ嫌われていた彼は、金持ちであっても寂しさを感じていたに違いありません。心の中に何か満たされない思いもあったかもしれません。そのような彼に、主イエスが声をかけて下さったのです。自分の罪を自覚すればするほど、このような自分を招いて下さった主イエスのご愛に感謝を覚えます。
私たちの歩みもすべてイエス様からの招きにお応えしてなされるものです。招きの御声によって、イエス様に心を向け、イエス様がどのような御方かを知っていきます。
B、招かれた者の喜び
レビは早速、イエス様を家にお迎えし、大きな宴会を催しました。彼は喜びのあまり同じ取税人の仲間や当時「罪人」とさげすまれていた人々を招いたのです。
今まで彼が開いていた宴会は自分のためのものでした。でも、主イエス様に従った後に開いた宴会はイエス様をおもてなしするためのものでした。そして、仲間たちにイエス様のことを紹介し、喜びを共にしようとしたのです。「私がお会いしたのはこのお方です。このイエス様が私に声をかけて下さり、私は、この方に従っていきます。」と証ししたことでしょう。
私たちもイエス様のことを証ししたい、お伝えしたいと願うのも喜びのゆえです。「イエス様は、こんな私さえも愛し、罪を赦して下さった。本当に感謝です。」という喜びがあるからです。
しかし、これを見たパリサイ人たちはイエス様を批判しました(30)。「聖い者は、罪人と交わってはならない」というのが彼らの信条だったからです。そこで、イエス様は、医者を必要とするのは病人であることを例にして、自分が来たのは罪人を招くためであると宣言されました(31-32)。
パリサイ人たちは、自分たちを罪人だとは思っていませんでした。神様から与えられた掟(律法)をきちんと守り、清く正しく生きていると思っていました。ですから、自分たちは罪人である取税人とは関わりを持たない、食事も一緒にしないと決めていました。
しかし、彼らが義人であったのかと言うと、そんなことはありません。彼らは清く正しく生きることばかりを考え、神様の愛と憐れみを忘れ、「罪人」たちへの愛を失っていました。
イエス様もそのことを厳しく指摘されます。取税人が罪人で、パリサイ派の人たちや律法学者たちが義人ではありません。聖書では、彼らも含めて、すべての人が罪人であるとみなされています。
そして、イエス様が、この地上に来て下さったのは、私たち罪人を招くためであり、悔い改めさせるためです。では、悔い改めとはどういう意味でしょうか。悔い改めるという言葉は、もともとは向きを変えるという意味があります。神様に背中を向けて生きていた人に、神様が背中の方から声をかけられます。そうするとその人が振り返って、神様の方に心を向ける。これからは、神様の方に心を向けて生きる、これが悔い改めるということです。神の御子イエス様は、私たちを愛し、声をかけられ、心を神様に向けさせて下さいました。
この宴会は、もともとはレビが催したものです。彼がイエス様を招き、仲間たちや罪人をも招いたのです。しかし、「わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と言われた主イエスのみ言葉によって、イエス様ご自身がレビや取税人や罪人たちを招いて下さる宴席となりました。
この後レビ(マタイ)は、取税人という職業を捨て、主イエスに従い主と共に歩みました。イエス様が十字架にかかって死なれたときは、他の弟子たちと同様に、イエス様を見捨て逃げ去りましたが、三日後に復活されたイエス様にお出会いした後は、生涯、主イエスを慕い、イエス様のことを伝えて歩みました。そして「マタイによる福音書」を書いたのです。
自分は、かつて取税人であった。それなのに愛するイエス様に招かれ弟子とさせていただいたと、大きな感謝をもってこの福音書を書きました。彼は、最初にイエス様にお出会いしたとき、「わたしに従ってきなさい」と呼びかけられたときの喜びを生涯持ち続けたのです。そして、この主イエスの御生涯を人々に紹介し、イエス様が、この世に来られた意味を全世界の人々に伝えようとしたのです。
結論)レビのように、私たちも、主イエスご自身が、「わたしに従ってきなさい」と招いて下さっているから、悔い改めることができるのです。イエス様の招きは、ただ言葉だけで与えられているのではありません。主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかり、肉が裂かれ、血を流して死んで下さいました。私たちの罪はこのイエス様の十字架によって赦されたのです。ご自身の命を私たちのために与えて下さる、その恵みによってイエス様が招いて下さっているから、私たちは悔い改めることができ、主イエスに従っていくことを得させていただけるのです。