ルカによる福音書5章12~16節

イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。 ルカ5章10節

  イエス様がある町におられたとき、そこに重い皮膚病にかかった人がいました。この皮膚病は、最近の研究では、 「ハンセン病」ではなく、感染性の強い皮膚病だったのであろうと言われています。ヘブライ語では「ツァラート」、ギリシャ語では「レプラ」と呼ばれていました。(英語の訳では、leprosy)
   イエス様のもとに来たこの人と彼に対してイエス様がなされたことは…

本 論)
A.主の前にひれ伏し、謙遜に願った
 その人が、レプラかどうかを判定するのは祭司の役目でした。レプラ患者は、ユダヤの共同体の中で暮らすことは許されませんでした。町の中に入らずに生活していました。
用事があって町の中に入らなければならないときは、大声で自分が患者であることを知らせなければならなかったのです。(他の人たちへの感染を防ぐため)
 「重い皮膚病の患者は、その衣服を裂き、その頭を現しその口ひげをおおって『汚れた者、汚れた者』と呼ばわらなければならない。 その患部が身にある日の間は汚れた者としなければならない。その人は汚れた者であるから、離れて住まなければならない。すなわち、そのすまいは宿営の外でなければならない。」(レビ記13章45-46節 p.153)この人も宿営の外で生活していました。神様を礼拝することも許されず、人々から見捨てられ孤独な状況にいました。ある時、イエス様のことを聞いて、町の中に入り、尋ね求めてイエス様のもとに来たのです。そして、主イエスの前にひれ伏して言います。
 「主よ、みこころでしたら、きよめていただけるのですが」。(12)
この人は、イエス様に向かって「主よ」と呼びかけ、「みこころでしたら」と言っています。彼は、主イエスがこの重い病をも癒す力を持っていられると信じていました。そして、この言葉は「あなたが望まれるならば、そのようにして下さい」という彼の主に対する謙虚な姿勢の表れでした。

B.主は御手を伸べてきよめられた
  主イエスは、この人の言葉に応えてこう言われます。
 イエスは手を伸ばして彼にさわり、「そうしてあげよう、きよくなれ」と言われた。(13)
 普通ですと、「汚れた者」とされた人に対して手を差し伸べることはしませんでした。その人に触れると、汚れがうつると考えられていました。しかし、イエス様は御手を伸べて、彼に触れて下さいました。
  「そうしてあげよう」という言葉は、いろいろな言葉に訳されています。新共同訳では「よろしい」、新改訳では「わたしの心だ」と訳されています。元の言葉、ギリシャ語では、「わたしは(それを)望む」を意味する、一語の言葉が書かれています。この重い皮病を患った人は、「あなたが願われるなら」と言いました。イエス様はそれに応えて「わたしは願う、きよくなれ」と言われたのです。
 ここに神の御意志が、御心が示され、彼は癒されました。そして、神の御心は、重い皮膚病を癒すことだけでなく、彼を礼拝共同体の中に復帰させることでした。それで、イエス様は続けて言われます。
 「イエスは、だれにも話さないようにと彼に言い聞かせ、『ただ行って自分のからだを祭司に見せ、それからあなたのきよめのため、モーセが命じたとおりのささげ物をして、人々に証明しなさい』とお命じになった。」(13)
  祭司に体を見せ、モーセの定めた通りにきよめの献げ物をすることはレビ記14章に書かれています。イエス様は彼にその通りに行って、祭司に「あなたはきよい」と言ってもらい、共同体に復帰しなさいと言われました。それが「わたしの心だ」と言われるのです。
  彼はこれまで、礼拝から遠ざけられていたために人々との交わりから遠ざけられ、宿営の外に置かれていました。その苦しみ悲しみから解放され、再び人々との交わりに生きることができ、礼拝共同体の一員として生きることができる者とされたのです。それが、主イエスの御心によって 彼に与えられた救いでした。

 結論)私たちも罪と心の汚れにより、神の御前に出ることのできないものでした。しかし、神様がその独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦して下さいました。そしてイエス様が、その御心によって私たち一人一人に御手を差し伸べて下さったから、私たちは今、ここにいることができます。私たちは皆、この重い皮膚病を癒された人と同じように今、この礼拝に集うことを許されているのです。
 私たちは生活の中で必ずよごれます。この世を歩んで行くとき、心もけがれを知らず知らずのうちにも受けています。そして自分自身では決してきよくなることはできません。きよめることのできるお方はイエス様以外にはおられません。祈りの中で、「主よ、みこころでしたら、きよめて下さい」と御前にへりくだり、きよめをさらに求めてまいりましょう。主イエスは、今も、み言葉と聖霊によって、私たちに御声をかけ、「そうしてあげよう。きよくなれ。」と御手を触れて下さっています。そのことを信仰によって受け取りましょう。