ルカによる福音書4章38~41節

「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はそのためにつかわされたのである」  ルカ4章43節

  ルカによる福音書の第4章は、イエス様がお育ちになったガリラヤ地方で伝道を始めれたこと、その活動の御様子を語っています。カペナウムの会堂の安息日礼拝の中で、 悪霊につかれた人を癒されました。この日の礼拝の後、主イエスがなされたことは…

本 論)A.ひとりびとりに手を置いていやされた
 イエス様は、弟子のシモン(ペテロ)の家に入られました。彼のしゅうとめが高熱で病んでいました。主イエスは彼女を癒されます。

「人々は彼女のためにイエスにお願いした。」(38)と

あるように、私たちも日常の中でいろいろな苦しみや悲しみや問題をイエス様に包み隠さず、申し上げ、助けを求めることができます。同じ出来事を告げているマルコによる福音書の並行箇所では、

「イエスは、近寄り、その手を取って起こされると…」(マルコ1:31)

と告げているように、イエス様は、私たちの祈りを聞き、その御手を伸ばし、私たち一人ひとりにふさわしい形で応えて下さいます。病が癒された彼女は、すぐに一同をもてなしました。「もてなす」を意味するもとの言葉は、やがて「奉仕する」、「仕える」という意味も含む言葉になりました。病のために、主のため、奉仕できなかった彼女が、主のために奉仕できるようになりました。それは主からいただいた愛と恵みへの応答の表れでもありました。次の段落は、安息日から翌日になったときの出来事を告げています。ユダヤ人にとって、一日は日没から始まります。「日が暮れると、…」(40)は、次の日になることで、安息日が終わることでした。仕事等をしてはならない安息日が終わって、人々は、病気で苦しんでいる自分の家族や友人を主イエスのもとに連れて来たのです。イエス様は、その一人一人に御手を置かれました。「手を置く」は、神様の祝福を祈られたことを示しています。イエス様は病気で苦しむ人々に手を置き、祝福し、聖霊の働きを祈って下さいました。主が一人一人に御手を置いて癒されたのは、一人一人との人格的な出会いの中で癒しを行われたことを示しています。悪霊を追い出し、病を癒されるみわざは、主イエスの十字架の死と復活による罪からの解放がなされることの現れでした。主の十字架と復活によって私たちの罪からの解放と救いが実現したのです。イエス様は、私たち一人一人とも出会い、御手を置き、私たちを罪から解放し、新しく生かそうと願っておられます。

1、神の国の福音を宣べ伝えられた
 翌朝、イエス様は人里離れたところに出て行かれました。マルコによる福音書は、

「朝はやく、夜の明けるよほど前に、イエスは起きて寂しい所へ出て行き、そこ
で祈っておられた。」(マルコ1:35)

と告げているように、イエス様は父なる神様に祈るために出て行かれたのです。カペナウムの町の人々はイエス様が、別の場所に行かれないように、必死に引き止めようとしました。しかし、イエス様は次のように言われて、出て行かれました。

「わたしは、ほかの町々にも神の国の福音を宣べ伝えねばならない。自分はその
ためにつかわされたのである」  (43)

イエス様は朝、祈りつつ神の御心を問われました。そしてご自分の使命を確認し、その道を進まれたのです。実はもうすでに神の国がカペナウムにおいても実現し始めていました。そこに救い主が来られ、悪霊にも病にも勝利されたのです。救い主によって、神が支配されるところ、それこそが神の国です。イエス様は、ご自分は神の支配が始まったということを他の場所でも宣べ伝えねばならないと言われます。一つの町の人々の病を癒したり、悪霊を追い出すことが、主イエスの真の使命ではありません。イエス様は、神の国を実現するために来られました。その神の支配が始まったということを告げるのが福音であり、良き知らせです。主はそれを第一の使命として十字架の死に至るまで歩み続けられました。

主の十字架と復活、そしてペンテコステの後、神の国と福音は世界中に広がっていきました。そして、現代、私たちが神の国の福音を聞くことができるようになるまで広がってきたのです。イエス様が追い出された悪霊は、主イエスこそ神の子であることを知っており、そのように叫びましたがイエス様は彼らにものを言うことをお許しになりませんでした。悪霊は、イエス様が、キリスト(救い主)であることを知っており、神の子だと言うことができました。しかし、イエス様はそのことを願われませんでした。主イエスは、私たち人間が、イエス様を神の御子、救い主と信じ、告白することを願っておられ、そのことを最も喜ばれます。十字架の上の主のみ姿を見たローマの百卒長は、「まことに、この人は神の子であった」と言いました。(マルコによる福音書15章39節 p.80)

私たちも、聖書のみ言葉と聖霊のお働きによって、十字架のキリストを知り、このお方が、神の御子、私の救い主です、と信じ、告白することができます。

結論)病がいやされ、悪霊が追い出されることは大きな幸いです。しかし、悪霊にも病にも勝利されたお方が、私たち一人びとりのために、十字架で死なれ、復活されたこと、そのことを信じる者の罪が赦され、永遠の命に生かされること、これらが最も大きな幸いであり、祝福です。イエス様によって新しくされた私たちも、主の宣教のお働きを受け継いで、置かれたところで、神の国の福音を宣べ伝え、イエス様を証してまいりましょう。