ルカによる福音書4章31~37節

そして安息日になると、人々をお教えになったが、 その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。 ルカ4章31、32節

  イエス様はガリラヤの故郷ナザレからカペナウムに移らました。マタイの福音書9章1節では、カペナウムのことをイエス様にとってのご自分の町であったと表現しています。それほどカペナウムはイエス様が宣教されたときの大事な場所でした。伝道に出られお疲れになると帰って来られた町でした。安息日にここの会堂で説教された主イエスは次のような出来事を通して神の御子としての権威を示されました。主は…

本 論)A.権威ある言葉で教えられた
 カペナウムの礼拝で、人々の心を動かしたのは、イエス様がお語りになった言葉でした。
「その言葉に権威があったので、彼らはその教に驚いた。」 (32)

この「権威」という言葉は「支配の力」とも訳すことができるし、「激しい力」を意味する言葉でもあります。イエス様は、ナザレの会堂のときと同じように、聖書を解き明かされました。当時の聖書は、今、私たちが読んでいる旧約聖書のことです。

「律法学者のようにではなく…」 (マルコ1章21節)

とありますが、当時の律法学者は「律法や、預言の書を開いて、自分が学んだ箇所を暗唱的に言うのみであって、それはまるで形にはまったように言葉を機械的に語るだけであった」と言われています。このようにこの時代の教師(ラビ)たちは、高名な学者や先達の言葉を引いて、自分たちの教えを権威づけていました。それに対して、イエス様はその語られる言葉に権威がありました。お語りになる一言一言が人々の心の中に深く入り、自分たちの心の中が探られたのではないでしょうか。主イエスの権威は、父なる神様からの権威でした。主の教えを聞いた人々はその教えに驚きました。この「驚いた」という言葉は、他の訳を見ますと「仰天した」とか「肝をつぶした」と訳されています。悪霊につかれた人は、イエス様に向かって「…神の聖者です。」(34)と叫びます。悪霊は主イエスに、あなたと私たちとは関係がない、だから私たちのところに首を突っ込むな、と言っているのです。「神の聖者(Holy One ofGod)」とは、「神の第一の使者」、聖霊によって力を受けている方、特別な使命のために遣わされている方という意味です。悪霊はイエス様の権威の源を見抜き、イエス様がどのような御方かを知っていました。 でも、イエス様が願っておられたのは、地上に生きている人間が信仰を持ってイエス様を「神のひとり子、キリスト(救い主)」と告白することでした。 後に、弟子のペテロは、「あなたこそ、生ける神の子キリストです。」と告白しました。  (マタイによる福音書16章16節 p.26)

十字架にかかられたイエス様の御姿を見たローマの兵卒は、「まことに、この人は神の子であった。」と言いました。 (マルコによる15章39節 p.80)
私たちも聖霊によって、イエス様を主(キリスト)と告白します。

「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも
「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも
「イエスは主である」と言うことができない。」
(Ⅰコリント人への手紙12章3節 p.270)

1、悪霊を追い出された
 イエス様は悪霊の力に対しても権威と力ある言葉によって勝利されました。(35-36)   癒されたこの人は、自分が自分の思いで語っていると思っていた言葉が間違っていたこと、それが実は悪霊の言葉だったことに気づかされたのです。
イエス様の権威ある言葉によって悪霊の支配から解放されるとき、この人は悪霊に投げ倒されましたが、傷は負いませんでした。悪霊からの解放は一時的な衝撃や苦しみをもたらすものですが、それは傷にはならず、癒しが起こることをこの出来事は示していま
す。 私たちも、み言葉によって罪が示されたり、主イエスが 共におられることを示されるとき、み言葉に衝撃を受ける (打たれる)ような経験をします。それによって心に悔い改めが与えられ、イエス様への信仰が強められます。 悪霊を追い出すことや病の癒しのような奇跡的なみわざをなされることはイエス様が神の御子であることの証しであり、権威の現れです。そして、イエス様の持っておられる最大の権威は、十字架の贖いによってなされた「罪をゆるす権威」です。

「あなたの罪はゆるされたと言うのと、起きて歩けと言  うのと、どちらがたや
すいか。 しかし、人の子は地上で罪をゆるす権威を持っていることが、あな
たがたにわかるために」 (ルカによる福音書5章23-24節 p.92)

結論)悪霊は、時代によって、社会のあり方によって、いろいろ形を変えて私たちを捕
らえようとしています。現代も私たちの社会や世界全体を、悪霊が新たな仕方で支配しようとしていることを感じます。私たちは、このような現実の中でこそ、主イエス様の権威ある言葉によって、自分の罪を示され、心打たれ、悔い改めて歩みます。み言葉によって、この世界を、そして私たち一人ひとりの人生の歩みを、本当に支配し、導いておられるのは父なる神様であることが示されます。礼拝の中で、日々の静まりの時の中で、主イエスの権威ある言葉を聞き続けてまいりましょう。私たちは主イエスの贖いのわざにより、罪赦され「神の子」とされました。主からの愛を受け、家族に仕え、隣人を愛するところにキリストの愛が現されていきます。今日も、愛し仕えることを通して、主の恵みと救いを告げ知らせる者とさせていただきましょう。