「このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう」 ルカ3章16節
洗礼者ヨハネがヨルダン川で洗礼を授けていることがユダヤの国中に広がり、それを聞いた人々が荒野に出て来ました。自分たちも洗礼を授けてもらおうとしたのです。
彼が人々に宣べ伝えたことは…
本 論)A.悔い改めの実を結ぶこと
ヨハネのもとに来た群衆たちに向かって、ヨハネは「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔改めにふさわしい実を結べ。」(7-8)と語ります。あなたがたは、ここで私から洗礼を受けても、それによって、神の怒りから救われることはない、と言います。実に激しく、厳しい言葉です。彼は、悔い改めのないままに洗礼を受けてもそれは無意味でしかない、それでは神の怒りを逃れることはできないと言うのです。群衆は、ヨハネの言葉を聴いて「それでは、わたしたちは何をすればよいのですか」と尋ねました。ヨハネは彼らに悔い改めと、下着二枚のうち一枚を持っていない人に、食べ物も持っていない人に分け与えなさいと勧めます。当時の兵卒たちは、取税人たちといっしょになってその権力や武力にまかせて、人を脅かし、お金をゆすりとったり、だまし取ったりしていました。ヨハネは、取税人たちに「決まっているもの以上に取り立ててはいけない」と言い、兵卒たちにも正義を 行い、自分の給与で満足するようにと説きました。ヨハネは、彼らに悔い改めと、悔い改めの実(具体的な行い)を説きました。悔い改めとは、神様に心を向けて生き始めることです。ヨハネはここで具体的な行いを勧めています。私たちも、日々の生活の中で、神様の恵みを知り、神からの愛をいただいたときに心のうちに悔い改めが生じ、悔い改めの実が結ばれていきます。
1、救い主によるバプテスマ
ヨハネが悔い改めを求めたのは、神様の方に心を向け直して、この後、すぐ来られる救い主をお迎えする備えを人々に備えさせるためでした。しかし、多くの人々はこのヨハネこそが救い主ではないかと思うほど、ヨハネを偉大な人だと思っていました。(15) でも、彼はそれを否定し、すぐ後に来られる「わたしよりも力のあるかた」(16)を証ししたのです。水による洗礼は人間が授けることができる、でも聖霊と火による洗礼は、神の御子、救い主だけが授けることができると。このように自分とキリストは全く違うのだと言いました。イエス様は、この後、ヨルダン川のそばにいたヨハのもとに来られ、民衆といっしょにバプテスマを受けられました。罪が全くない御方、悔い改めを必要としない 御方が他の人たちといっしょにヨルダン川に身を沈めて洗礼を受けられました。それは彼ら罪人と同じ立場に立たれるためでした。イエス様が洗礼を受けられた後の歩みは、すべての人の罪からの救いを実現するための歩みでした。それは十字架に向かう道です。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる、殻は消えない火で焼き捨てられる、罪人に対する神様の怒り、神様のさばきの大きさをヨハネはこのようにたとえて、群衆に悔い改めを迫りました。しかし、彼の後から来られた救い主イエス様は、斧を 振るう方ではありませんでした。麦と殻をふるい分ける方ではありませんでした。 イエス様は、ヨハネが語った神の怒りとさばきを私たちの身代わりとなって十字架の上でその身に受けて下さったのです。救い主が聖霊と火で洗礼を授けて下さるというヨハネ の言葉は、ペンテコステのときに実現します。(使徒行伝2章1-4節 p.181)
火は、聖霊によるきよめを表しています。ペンテコステの日に弟子たちの上に聖霊が降って以来、聖霊は私たちを聖なる者とするお働きを続けて下さっています。そのお働きによって、私たちは御霊の実を結ぶのです。御霊の実とは何かがガラテヤ5:22-23に記されています。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、
自制であって、これらを否定する律法はない。」
(ガラテヤ人への手紙5章22-23節 p.299)
イエス様は、ご自分を救い主と信じる者に聖霊を与えて下さり、聖霊によって私たちの内
に住んで下さいます。私たちは、自分の力ではなく、内にいただく聖霊によって私たちの内に住んで下さいます。
結論)私たちは、自分の力ではなく、内にいただく聖霊のお働きによって良い実を結んでいきます。私たちが良い実を結ぶために主イエスは、救いの道を開いて下さいました。愛のわざに生きたマザーテレサはこのように言っています。「私たちはこの世で大きなことはできません。小さなことを大きな愛でするだけです。」 洗礼者ヨハネが生活の中で、自分ができることから変えていきなさいと勧めたように、私たちもキリストの愛と聖霊の力をいただいて、日々の生活の中で小さくても愛のわざを行わせていただきましょう。