マタイによる福音書16章13~28節

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」マタイ16章24~25節

序 論)
今朝の聖書の箇所は、マタイによる福音書でも前半をしめくくる大切な箇所です。十二弟子のひとり、シモン・ペテロを通して、イエス様に信仰告白がなされる場面です。

本 論)1.ペテロの信仰告白
いずれにしましても、ペテロにイエス様が問いかけられたのはこうです。「あなたがたはわたしをだれと言うか」。イエスを誰と告白するのか。これがとても大切なことです。イエスさまから問われたように、私たち一人一人が答えたというときがあったということです。あるいはこれから信仰をもってみたいと思っていらっしゃる方にとっては、そう答える時が必要だということです。
いろいろな人がいろいろなことを言っています。「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。他の人たちは、エリヤだといい、エレミヤあるいは預言者のひとりだと言っている者もあります」。イエスの姿に驚いて、旧約聖書の中の預言者の再来だと言っている者たちもいるということです。逆に評価していない人たちもいました。
「あなたこそ、生ける神の子キリストです」(16)。ペテロはそのように告白しました。神の民が待ち続けていた救い主、しかも死んだ偶像ではなく生きておられる神の御子、人を生かすいのちの主、それがあなたです、と。素晴らしい告白です。

私たちもそのように、日々の生活のどこででも、この告白をしているでしょうか。わたしの主は、人間ではなく、自分の好む何かでもなく、私たち自身でもなく、この世界をお造りになられた救い主、生きておられる神のひとり子だ。単なる教師、単なる偉人ではなく、わたしの救い主です、と。

2.この岩の上に建てられるもの
ペテロの告白をきき、イエス様は語られました。「あなたはさいわいだ」。イエスをキリストと信じ、告白する者はさいわいなのです。また、おっしゃいました。「あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である」(18)。「そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも『イエスはのろわれよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言うことができない」(1コリント12:3)。

教会とは何かといえば、イエスをキリストと告白する者の集まりです。「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と。他の何があったとしても、ここがずれてしまっては、教会ではなくなってしまいます。

ローマ・カトリック教会に法王がいるのは、この聖書の箇所に由来します。岩とはペトラで、ペテロ(石)と関係ある言葉です。ペテロの上に教会がたてられるとして、代々その権威を受け継いでいます。プロテスタント教会は、この岩、とは信仰告白と理解しています。ですから、私たちがイエスをキリストと告白するその告白の上に、教会が立てられていくということです。

3.自分を捨て、自分の十字架を負うて
素晴らしい告白をしたペテロですが、イエス様が十字架のことを話し始めると、イエス様の腕を引っ張って、そんなこといってもらっては困ります。そんなはずがないじゃないですか。といさめはじめました。イエス様はペテロに「サタンよ、引き下がれ」と強く戒めました。ペテロは、イエス様の言葉に謙虚に耳を傾けることはしませんでした。ペテロには先入観がありました。救い主は栄光のお方であって、十字架の苦しみの道などいくはずがないと思い込んでいたのです。しかし、十字架こそがイエス様が行かなければならない道だったのです。

イエスさまのお言葉に耳を傾けましょう。

「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」(マタイ16:24,25)

イエス様が栄光の道だけを行かれたのでないなら、イエス様についていこうと思う私たちの道も当然そうでしょう。けれども十字架がおわりではなかったように、復活のいのちがその先にあったように、神様のために、損をするように思えたとしても、それこそが私たちを真の意味で生かすのです。

私たちのために十字架の道を歩まれたイエス様を見上げつつ、考えてみましょう。私が捨てるべきものはなんでしょう。こだわって、イエス様に従って行くことを妨げているものがありはしないでしょうか。私に背負うようにと差し出されている十字架は何でしょうか。喜んで、イエス様に従って行けるように、神様に助けていただきましょう。