「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」使徒行伝3章6節
今日の聖書の箇所に登場する男性は、生まれつき足が不自由で、一人で歩くことができませんでした。働くこともできないので、神殿に来る人たちから施しを受けていました。 男性がいつものように神殿で物乞いをしていると、そこにペテロとヨハネが祈るためにやって来ました。彼らはこの男性をじっと見つめたのです。何かもらえると彼は期待しました。しかし、ペテロはお金ではなく、「… しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい。」と言いました。聖書では「名」は「人格」、その人自身を表わす場合に使われることがあります。この場合の「主イエスの御名」も、イエス様ご自身という意味が含まれています。「イエス・キリストの名」が私たちに与えるものは…
本 論)A.罪からの解放
ペテロとヨハネはこの男性を見たとき、内側から憐れみの心と、イエス様なら何かをして下さるという信仰が湧き上がりました。彼らはしゃがんで、この男の人と目を合わ せます。苦しんでいる人を上から見下ろすのではなく、自分たちも同じ立場に身を置いて、彼の目線にたちました。このことは、私たちが自分たちの周りの人とどのように接 すればよいかを教えられます。自分に悩みを打ち明けてくる人に対して、私たちは自分の経験したことであるかどうかに関わらず、まず共感できるように祈りましょう。それはすぐにアドバイスするのではなく、まずはその人の痛みを受け止められるようにと祈ることです。男性は「金銀はわたしにはない。」という言葉にがっかりしたでしょう。しかし、ペテロは彼にとって、お金よりはるかに大切なもの、彼の問題を根本的に解決するもっと 良いものを与えようとしていました。それは彼がイエス様を信じて、生きる希望を持つことであり、さらに彼が歩けるようになって、自分で生計を立てられるようになる道です。 ペテロが「わたしにあるもの」と言った「イエス・キリストの名」とは聖霊によって「わたしの内に生きておられるイエス様の力」です。自分の人生を諦め、希望を失っていたこの人は、かつては罪の中にいた私たちの姿を象徴しています。彼がキリストの名によって立ち上がることができたように、私たちも主イエスの十字架によって罪赦され、罪から解放されました。そして復活して今も生きておられるイエス様を内にいただいて、新たに立ち上がって歩むことができるのです。
- 神の子という立場
男性が癒されたことについて後にペテロは「わたしたちが自分の力や信心で、あの人を歩かせたかのように、なぜ見つめているのか」(使徒3章12節)と、自分の力ではないとはっきり言い切っています。
「そして、イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、あなたがたのいま見て知っ
ているこの人を、強くしたのであり、イエスによる信仰が、彼をあなたがた一同
の前で、このとおり完全にいやしたのである。」 (使徒3章16節)
イエス様を信じた私たちは「賜物としての聖霊」(使徒2章38節 新改訳)を内にいただき、「神の子」とされました。(ヨハネ1章12節) 私たちはキリストにあって父なる神様から愛される神の子なのです。
結論)
私たちはお祈りした最後に「イエス・キリストの御名」によって祈ります。それは、聖霊によって今、ここにおられるイエス様により頼んで祈るという意味です。
「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもそ
の中にいるのである。」 (マタイ18章20節 p.29)
イエス様の御名には力があります。私たちも主の御名の力を信じて祈りましょう。 私たちは周りの人が今、直面している問題が解決することを神様に願い求めると共に、その人が救われるように祈り求めてまいりましょう。私たちも「わたしにあるもの」を人に分け与えることができるのです。