「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。 」 (ヨハネ3章16節)
同志社大学を創立した新島襄先生は、この3章16節が告げている言葉を「これは新約聖書の富士の山、富士山である」と言いました。宗教改革者のマルティン・ルターは「これは聖書の縮図、また小さき福音書である。」と言っています。聖書が一番伝えようとしていることがこの箇所に表わされています。
さらにルターは、ヨハネ3章16節について、こう言いました。「この言葉を暗誦しなければならない。毎日自分に言い聞かせる必要があるからだ。そして、この言葉が私ども自身によく通じるようにしなければならない。」この ようにこのみ言葉は、すべてのクリスチャンが暗誦し、良く味わい、そこにある神の愛を思いめぐらすべき言葉です。 では、このみ言葉に表わされている神様のご愛、最大の贈りものは何なのかを聴いてまいりましょう。
本 論)A.神様は「この世」を愛された
聖書の神様は、天地のあらゆるものを造られたお方、全知全能、永遠の神様です。そして、聖書は「神は愛である。」(Ⅰヨハネの手紙4章16節 p.380)と告げています。この聖句の中に「愛」という言葉が出てきました。日本語の「愛」は、男女間の愛、兄弟愛、友愛等で使われています。でも、これらの愛は相手がどうであるかによって変わってしまう条件付きの愛です。それは、「もし…ならば」とか「…だから」の愛です。
でも、もう一つ別の最も大切な愛があります。この愛は多くの人が気づいていない、見失っている愛です。それは神様の愛です。この神様の愛をギリシャ語では「アガペー」と言います。新約聖書の中で使われている「愛」という言葉はほとんどこのアガペーが使われています。その一つが、この聖書の言葉です。
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。」
神様の愛の対象は「この世」です。「世」とは、世界中のすべての人、私たち一人ひとりのことです。しかし、「この世」は神様に愛されるだけの価値があるでしょうか。まったくありませんでした。神様はこの世界を創造され、最初の人、アダムとエバをエデンの園に住まわせて下さいました。しかし、彼らは神様の命令に従わず罪がこの世に入り込んできました。そのとき以来、人は生まれつき罪の性質を持つ者となりました。聖書の言う罪は、神様に心を向けないで、神様に背を向けて、自分勝手に歩むことを指します。
神様を否定し、信じない人間は、真の神の代わりに、それ以外のものを神とあがめ、自己中心な生き方をし、その結果、具体的な罪を犯し続ける者となってしまいました。人は罪を犯すので罪人なのではなく、生まれながら罪人なので罪を犯すのです。ですからこの世は「罪の世」であり、「汚れた世」です。それにもかかわらず神様は、この世を愛されました。今も神様の愛私たち一人ひとりに注がれています。
神様は「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ書43章4節 新改訳)と言われます。この神様の愛の対象から漏れる人は一人もいません。
B.ひとり子をお与えになったほどに
神様は無条件の絶対的な愛で「この世」を愛されました。それは人が神から離れていても、神様に敵対する者であっても、神様は変わることなく愛されるのです。
さらに驚くべきことに「神はそのひとり子を賜わったほどに」愛して下さったのです。神様はひとり子イエス・キリストを与えて下さったほどに、この世を愛されました。「世」というところに、ご自分の名前を入れて読んでみて下さい。神様はご自分の愛するひとり子イエス様を与えて下さるほどに私たちを愛されました。
「賜った」の「賜る」は「与える」という意味と共に元の言葉では「引き渡す」という意味も含まれています。神様は、ご自分の愛の対象、最大の喜びの源であるひとり子
イエス様をユダヤの宗教指導者たち、ローマの兵卒たちの手に引き渡され、犠牲にしてまでこの世を、私たち一人ひとりを愛されました。
神様がひとり子を引き渡された犠牲とは、イエス様が十字架で死なれたことです。神様は、一つの罪も少しの汚れもないお方、捨てられる理由の全くないひとり子イエス様を十字架におかけになるほどに、この世を愛されました。神様はなぜ、それほどまでのことをされたのでしょうか。「それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」それは私たちを永遠の滅びから救うためでした。それは神様との交わりのない世界に置かれること、愛の温度が一度もない、慰めのかけらもない世界、一筋の光さえもない世界、それは永遠の滅びです。しかし、イエス・キリストの十字架の死は、この滅びから私たちを救います。全人類の罪の罰をご自身が身代わりとなって十字架の上で一身に受けて下さったので、私たちの罪は赦されました。そして、主の十字架は私たちに永遠の命を与えるためでした。それ永遠に神様と共にある命です。
結論)神様が、御子イエス様によって私たちに与えようとしておられる永遠の命を得るために必要なことは悔い改めと信仰です。
悔い改めとは、「心を変える」という意味です。神様に背中を向けていた者が、神様の方に心を向けて生きることです。そして、もう一つは、イエス・キリストがこの私の罪のために、私に代わって死んで下さったことを信じることです。
「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ローマ人への手紙10章9節 p.246)
神様のご愛のゆえに、イエス・キリストによって世界のすべての人々に救いの扉が開かれています。すなわち、救いは世界のすべての人々のために備えられています。それゆえこの世のどんな人でも、キリストを信じ受け入れるなら救われるのです。
クリスマスは、神様が私たちに御子イエス様を与えて下さったことを感謝し、喜びを共にするときです。