ルカによる福音書1章26-38節

そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。      ルカ1章38節

  祭司ザカリヤの妻エリサベツがバプテスマのヨハネを身ごもって約6か月後、御使いガブリエルは、ユダヤの国の田舎町ナザレに住んでいたマリヤのもとに神様から遣わされました。御使いは、マリヤに神の言葉を伝えます。
御使いの告知の内容とそれに対するマリヤの応答は…

本 論)A.御使いは神の「恵み」を告げた

 御使いがマリヤに語りかけた最初の言葉は、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます。」(28)でした。「おめでとう」と訳されている言葉は、もともとの意味は「喜びなさい」です。しかし、聖書が「…ひどく胸騒ぎをして…」(29)と告げているように、不安と恐れを感じたのです。それゆえ、御使いは、「恐れるな…」と語りかけ、そして、神様からのメッセージを語っていきます。マリヤに告げられたのは、「あなたは神から恵みをいただいているのです。 見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。」との言葉でした。そしてバプテスマのヨハネの誕生の予告と同じように(13-17節)、生まれてくる子がどのような者になるのか、が語られていきます(32、33節)。
このみ告げに対してマリヤは返答します。さらに御使いは告げます。「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。」(35節)マリヤに聖霊が降り、いと高き方つまり神様の力が彼女を包むのです。聖霊によって働く神の力によって彼女はみごもり、聖なる者、神の御子であるイエスを生むのです。 最後に語られたのが「神には、なんでもできないことはありません。」(37)という言葉でした。この原文を直訳するとこうなります。「なぜなら、神においては、全ての言葉は不可能ではないからだ。」神の言葉はすべて実現する、実現しない言葉はない、と告げられたのです。
神様がマリヤに語り、約束されたみ言葉は、彼女が生む子がイエスと名付けられ、救い主となり、ダビデの王座を受け継ぎ、神様のみ救いに与る民をとこしえに治める者となるという恵みの言葉でした。「恵み」とは、神様が人間に一方的に与えて下さるものです。ナザレの田舎の若い女性のマリヤを神様は一方的に選ばれ、救い主の母となる恵みと光栄を与えられました。御使いはマリヤに「主があなたの共におられます」と告げました。自分の体に救い主を宿す、それはマリヤにとって身に余る光栄ですが、最も大きな恵みは、神様が共におられることです。
それは、マリヤにとってだけでなく、イエス様を信じる私たちにとって最大の恵みです。神様が、マリヤと共におられたように、今、イエス様は、聖霊によって私たちと共にいてくださいます。約2000年前にマリアを通して、地上に来られ、十字架にかかられ、復活されたイエス様は「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。」(マタイによる福音書28章20節p.50)と約束して下さっています。

B.マリヤは神の言葉を信じ、神に自分を委ねた

 「そこでマリヤが言った、『わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように』。そして御使は彼女から離れて行った。」(38) ここで、マリヤは、神様の約束の言葉が必ず実現すると信じて、自分を低くして神様にすべてを委ねました。ここでマリヤが「わたしは主のはしためです」と言っています。「はしため」というのは、女の召使いという意味です。英語の聖書を見るとthe Lord’s servant(主の召使い)と訳されています。
マリヤは、自分の思いや疑いは全部捨てて、神様の御心に従うことを告白します。彼女はさらに、自分のことを「この卑しい女」(48)と言っています。マリヤは、自分を低くして、へりくだってこんな自分をも愛して下さる神様にすべてを委ねました。後に、エリサベツは、イエス様を体に宿したマリヤに対して、次のように言いました。
「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう。」(45節)新改訳聖書では、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は何と幸いなことでしょう。」と訳されています。マリヤは、神様の約束の言葉は必ず実現すると信じきって、救い主の母となることを待ち望んでいこうとしました。
そして、彼女は神を崇め、たたえます。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます。」(46-47節) 神様は、マリヤを母として、救い主イエス様を地上に送って下さいました。
「この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。 今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう。」(48節) 神様は、マリヤを心にかけて下さいました。「心にかける」は、他の聖書の訳を見ると「目に留める」と訳されています。
神様は、マリヤに目を留めて下さったように、私たち一人ひとりのことも目を留め、心にかけて下さっています。そして、神様は、私たちに、この私にもイエス様を与えて下さいました。

結論)神様のみわざはいつも小さなところから始まります。名もなき祭司であったザカリヤとその妻エリサベツから、小さな乙女マリヤから、救いのみわざが始まりました。小さな者たちが用いられて、救いのみわざが静かに進行していきました。
私たちも神様のみわざのために用いられる「小さなマリヤ」です。マリヤと同じように、聖書を通して神の言葉をいただいている者です。 私たちは、マリヤの信仰にならい、いつも共にいて下さるお方、イエス様を信じ、神の言葉を信じ、「私も主の僕です。お言葉どおりこの身になりますように。」と神様にお委ねして歩みましょう。