「すべての人を照すまことの光があって、世にきた。」 (ヨハネ1章9節)
この福音書を記したと言われるヨハネは、「初めに言があった。」(1)と告げます。ここでの「初め」は、この世界が造られるそれ以前のことを指しています。ヨハネは 「キリスト」と言わないで、「言(ロゴス)」と表現しました。当時、すでにキリスト教がユダヤ人の間だけではなく、異邦人(ギリシヤ語を話す人々)の間にも広がっていました。彼らには「ロゴス」の方がよく理解できたのです。今回の個所での「言」、「命」、「光」というキリストを表わす言葉のそれぞれは、神の御子イエス様が、人となって世に来られ、私たちに働きかけられた、その働きを示しています。
本 論)A.光なるキリスト
ヨハネの福音書の書き出しと創世記の書き出しには多くの共通点があります。どちらも「初めに」という言葉で始まっています。創世記では神様が、「光あれ」、「大空があれ」、「地は青草と、種を持つ草と、種類にしたがって種の上にはえさせよ」などと命じて、「ことば」によって世界を創られたとありますが(創世記1章1、6、11節等)、
ヨハネの福音書でも、イエス・キリストのことを「言(ことば)」と呼び「すべてのものは、これ(ことば)によってできた。」(3)と言っています。創世記では神様が最初に造られたものは「光」でしたが、ヨハネの福音書でも、「この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(4)と言って「光」が現れます。
では、創世記の「初め」とヨハネ福音書の「初め」では、どちらがより「初め」でしょうか。それはヨハネの方です。創世記の「初め」は、この世界の始まりのときを指していますが、ヨハネの福音書の「初め」は、この世界が造られる、それ以前のことを指しています。この「言」であるキリストは「初め」から存在されたお方でした。それは、時間の最初、歴史の最初という意味ではありません。時間が始まる以前、つまり創造のみわざを開始されるその時、すでに存在しておられたお方でした(3)。このキリストは「神と共にあった」お方です。すなわち、キリストは永遠の神の御子であり、父なる神様と永遠の交わりの中におられたお方なのです。
「この言に命があった。」この命は、霊的な命、永遠の命です。神様との交わりの中に生かされている命です。「そして、この命は人の光」でした。「やみはこれに勝たなかった」のです。闇の中に光が差し込んでくると、闇は光を消します。しかし、光の中に、闇は入ることはできません。闇が光を追い出すことはできないのです。
「光はやみの中で輝いている」(5) この言葉は現在形で記されています。1節から5節まで他の言葉は過去形ですが、この言葉だけは現在形です。それは、イエス様が光として変わることなく輝いておられる方であることを示しています。
このお方が、約2000年前、この地に、私たちのところに来て下さったのです。私たちの生かされているこの世界は、一見すると闇が支配しているのではないか、そう思える世界です。明るい将来を夢見ることができないのではないか、そんなことも思ってしまいます。しかし、聖書が言っているのはそうではありません。闇は確かにあります。しかし、イエス・キリストによる勝利がすでになされました。
預言者イザヤが「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に光がのぼった。」 (マタイ4章16節、イザヤ書9章2節) と預言した、ように、イエス様によって光がもたらされました。イエス様が十字架と復活によって、罪と死に勝利して下さいましたから、私たちがたとえ死の陰の谷間を歩いているように思えるときも、恐れることはありません。命の光であるお方は必ず脱出の道を備え、導いてくださいます。
「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た」。 イエス様が地上に来られた目的の一つは、私たちに父なる神様がどのようなお方かを現し、啓示するためでした。光 は物を照らして見えるようにします。そのように、光なるキリストによって、私たちは目を開かれ、キリストを通し て、神様がどのようなお方かがわかるようになるのです。
B.イエス様を心に受け入れる者の特権
「まことの光」(9)の「まことの」という言葉は、原語で「真実な」とか「本当の」という意味を含んでいます。イエス様は、暗黒の世界に輝く、唯一で本当の光として来て下さいました。 しかし、この世の人々は、イエス様がこの世に来られたとき、イエス様を救い主と認めることができませんでした。神から離れ、霊的に盲目になっていた人は、
イエス様に対して偏見を持ち、敵対してしまったのです。ですから、イエス様が「自分のところ(ユダヤの国)」に来られたのに、「ご自分の民(イスラエル民族)」は受け入れませんでした(11)。それで、イスラエルの民はキリストを信じることなく、十字架の死へと追いやりました。そのことにユダヤの人々とすべての人の神に敵対する罪と心の闇が示されていいます。しかし、「やみは光に勝てず」、イエス様は死に打ち勝たれ復活されました。そして当時はまだ少数ですがイエス様を受け入れた人たちがいたのです。「しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。」(12) 「力」は新改訳では「特権」、新共同訳では「資格」と訳されています。たとえ、だれであっても、イエス様をこの世界の主、また自分の救い主と信じ受け入れた人は、神様が恵みによって神の子どもとしての特権を与えて下さいます。
「それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。」(13)、私たちが血筋や人の力ではなく、神様によって生まれ、新しく造られた者とされる道が開かれたのです。
結論)このように永遠のお方が、人となってこの地上に来られ、私たちと変わらず、地上の人生を生きられたと告げます。「そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った」(14)とある通りです。「宿る」は「住まわれた、生きられた」という意味が込められています。今週から待降節、アドベントに入ります。2000年前にイエス様がこの地上に来て下さった最初のクリスマス、神が人となられた日に思いを馳せながら、今このとき、もっともっと多くの人たちが新たに真の神様を知り、御子イエス様を信じ、心に受け入れることができるように、祈りましょう。ご降誕の日を待ち望みつつ、イエス様を心にお迎えいたしましょう。