「これを聞いた民衆は皆、また取税人たちも、ヨハネのバプテスマを受けて神の正しいことを認めた。しかし、パリサイ人と律法学者たちとは彼からバプテスマを受けないで自分たちに対する神のみこころを無にした。」 (ルカ7章29-30節)
洗礼者ヨハネは、預言者マラキが預言していたように(27節はマラキ書3章1節の引用)、イエス様が地上に来られる少し前に生まれ、主イエスのために道備えをした人でした。イエス様を、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1章29節)と証しした後、ヨハネは領主ヘロデによって牢に捕らえられてしまいます。そこで二人の弟子たちをイエス様のもとに使いに出して尋ねました。「『きたるべきかた』はあなたなのですか。それとも、ほかにだれかを待つべきでしょうか」(20)と。イエス様にその問いに対する答えを与えられ、二人の使いは去っていきました。
その後、主イエスは周りにいた群衆に向かって、ヨハネやパリサイ人たちについて話されます。
本 論)A.神の正しさとみここころ
荒野はヨハネがいた場所でした。あなたがたが、荒野に行ったのは、風にそよぐ葦を見るためか(24)。風にゆらゆらと揺れている、そんな不確かなものを見に行ったわけではないだろう、とイエス様は言われます。洗礼者ヨハネは信仰と使命に生きた不動の人でした。「柔らかい着物」は上等な服のことです(25)。ヨハネは柔らかいどころか、「ラクダの毛衣」(マタイ3章6節)を着て生活していました。ぜいたくな暮らしをしている人なら宮殿にいるのだから荒野に行く必要などないだろう、と言われます。
「では、何を見に出てきたのか。預言者か。そうだ、あなたがたに言うが、預言者以上
の者である。」(26)
ユダヤの国にはそれまでたくさんの預言者がいました。しかし、イスラエルの民がよく知っていたそれらの預言者よりも、ヨハネの方が偉大だとイエス様は言われます。「あなたがたに言っておく。女の産んだ者の中で、ヨハネより大きい人物はいない。」(28) 今まで生まれたどんな人よりもヨハネが一番偉大である、と。そのようなヨハネの説教を聴いて、民衆や取税人たちはヨハネから「罪の赦しを得させる悔い改めのバプテスマ」(ルカ3章3節)を受けて神の正しいことを認めました(29)。神の正しさ(義)を認めたということは、彼らが自分たちは神の前に正しくない、罪あるものであるということを認めたという意味です。彼らはヨハネの語るみ言葉によって、自分の罪を示され、その罪を赦して下さる神様の恵みに依り頼んで悔い改めたのです。それによって彼らは救い主の到来によって始まろうとしている新しい時代(新約時代)の備えをしたのです。
これに対してパリサイ派の人たちや律法の専門家たちは、自分の義を主張しました。自分は律法に従って正しい生活をしていると誇り、実は自分が神様との関係を失っている罪人であることを認めようとしなかったのです。それゆえに彼らは、悔い改めのしるしである洗礼を自分には必要ないと思ったのです。しかし、それによって彼らは「自分たちに対する神のみこころを無にした」(30)と聖書は語ります。彼らに対する神様のみこころは、洗礼者ヨハネの言葉に耳を傾け、彼が指し示した救い主イエス様を信じ、受け入れることでした。
B.主の恵みによって神の子とされた者
ヨハネの洗礼を拒み、自分に対する神の恵みのみこころ無にした人々のことが、広場に座って互いに文句を言っている子どもたちの姿にたとえられています。(32)
「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった」は婚礼ごっこです。「弔いの歌を歌ったのに、歌ってくれなかった」は葬式ごっこです。このたとえは、「笛を吹く子ども、歌を歌う子ども」がイエス様やヨハネを表わし、それに合わせない子どもたちが「今の時代の人々」(パリサイ派の人たちやヨハネの言葉を受け入れない人々)を表わしています。
イエス様の教えとヨハネの教えとの間には、婚礼と葬式ほどの違いがあります。ヨハネは「パンを食べることも、ぶどう酒を飲むこともしない」(33)人でした。人々の罪を指摘し、悔い改めを求めるヨハネは、楽しみや喜びとは無縁の、禁欲的な生活をしていたのです。そのヨハネをパリサイ人や律法学者たちは、「あれは悪霊につかれているのだ」(33)と言って拒みました。一方、イエス様は、断食もなさいましたが、弟子たちや取税人など罪人とさげすまれていた人々と飲み食いする宴会の席に着かれました。しかし、そのようなイエス様に対して、彼らは、「見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ」(34)と言って批判します。イエス様やヨハネがどれほど語り掛けても、彼らはそれを素直に聴くことができませんでした。ヨハネは旧約時代の最後に位置する預言者であり、イエス様は、神の国をもたらす救い主として来られた御方です。
「…。しかし、神の国で最も小さい者も、彼よりは大きい。」(28)
洗礼者ヨハネは、イエス様の十字架と復活を知ることなく、地上から去っていきました。しかし私たちは神様の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったことによって、自分たちの罪は赦され、主の復活によって新しい命、永遠の命に生かされていることを知り、イエス様を信じることができる恵みの時代に生かされています。イエス様を信じ、従う者はこの地上において、すでに神の国に生きる者とされているのです。そして、教会は神の国のひながたなのです。主イエスの贖いによって、小さな者(私たち)がヨハネが受けた恵み以上の大きな恵みに与り、ヨハネも知らなかった喜びが与えられるのです。
結論)
主イエスは最後に「しかし、知恵の正しいことは、そのすべての子が証明する。」(35)と言われました。ここでの「すべての子」は、「神の正しいこと」を認めた人たちのことです。神の知恵とはイエス・キリストによってなされた救いのみわざのことです。神様は、御子イエス様を信じる私たちを神の子として下さいました。
パリサイ派、律法学者たち、ユダヤのほとんどの人たちが、イエス様を受け入れられなかったとしても、神の知恵は、イエス様を信じる人たちを生み出しました。そして、キリストの弟子が今に至るまで次々と起こされてきました。
神様は、これからも、御子イエス様を信じ、主イエスに依り頼んで歩む人たちが起こされることを願っておられます。「主は私の救い主です」と真実を正しく見分けることができるよう御霊の助けを祈り求めながら、語りかけておられる神のみ言葉に素直にお応えして参りましょう。