…。 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい、そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目にあるちりを取りのけることができるだろう。 ルカ6章42節
「平地の説教」の中で、「敵を愛しなさい」と語られたイエス様は、新たに三つのたとえを用いて話されます。これらのたとえはいずれも「見る」あるいは「見えない」と いうことに関係しています。これらを通して、イエス様が伝えようとされたことは…
本 論)A.主イエスに似た者へと変えられていく
第一のたとえは、目の見えない人が、見えない人の道案内をすることはできない、そんなことをすれば二人共、穴に落ち込んでしまうという話です。これは肉体的に目が不自由という意味ではなく、霊的な目、信仰の目が見えていないという意味で語っておられます。これは、三つ目の「ちりと梁(はり)」のたとえと関連づけて聞くと意味がはっきりしてきます。
次のたとえで言われている「弟子」と「師」は誰のことでしょう。このとき、弟子たちはイエス様の説教を聞いていましたから、「師」とはイエス様のことであり、「弟子」 は、イエス様に従っている弟子たちだと解釈できます。「弟子はその師以上のものではない」、弟子たちはイエス 様に優ることはできません。しかし、次にイエス様は「修 行をつめば、その師のようになろう。」(40)と言われます。「修行を積む」のもとの言葉は「完成する」という意味があります。そして文法的には受け身形です。つまり「完成させられる」という意味です。「(神様によって)完成させられるすべての者は主イエスのようになるであろう」と告げられました。
新約聖書の中で何度も語られていることは、私たちが、キリストに似た者へと変えられていくということです。一つはローマ人への手紙で告げられています。
「神はあらかじめ知っておられる者たちを、更に御子のかたちに似たものとしようと
して、あらかじめ定めて下さった。」 (ローマ人への手紙8章29節 p.243)
イエス様を、神の御子・救い主と信じ、従う者は神様が成長させて下さり、イエス様に似る者へと造り変え続けて下さいます。
B. 主による赦しの恵みに生かされる
三つ目のたとえの、「ちりと梁」は何を意味しているでしょう。
「ちり」は、人の小さな罪や欠点のことです。それらをあげつらったり、粗探しをして人を批判することのたとえです。「梁」は新共同訳聖書では「丸太」と訳されていま す。人に対して「あなたの目の中のちりが見える」と言っているその人自身の目が実は丸太で塞がれてしまっていて何も見えていないのだと言われます。このように「丸太」は人間の霊的な目を塞いでいる「罪」です。それは、自分の手(力)では、引き抜く(取り除く)ことはできません。私たちのその罪を取り除いて、きよくするためにイエス様は、私たちのもとに来て下さいました。しかし、当時の宗教指導者たち、パリサイ人や律法学者は自分の罪に気づくこともなく、イエス様のみ言葉を聞こうとする謙虚さも失っていました。
ある説教者は、これらの丸太は、イエス様が磔にされたあの十字架の木のことだ、と霊想しています。私たちの罪を象徴している丸太は、キリストがそれを尊い御愛のゆえにご自分の十字架として背負い、私たちの罪を取り除いて下さいました。そして神様は、イエス様を復活させられ、私たちのすべての罪を赦して下さいました。
神様は、主イエスによって私たちの目の丸太を取り除いて下さいました。私たちの霊の目を澄んだ目にして下さり、本当に見るべきものをはっきり見ることのできる目にして下さったのです。
イエス様を信じ、従おうとするとき、私たちの主の弟子としての歩みが始まります。兄弟の目の中にちりがあるのを見たとしても、そのことで責めたり批判するのではなく、その人を赦し、必要なときには忠告し、祈りましょう。ルカによる福音書で、ここまでに何度か「兄弟」という言葉が出てきました。それらは血のつながりがあるという兄弟と意味でした。でも、ここでは、教会で使われる「兄弟姉妹」という意味で言われています。そして、私たちには共通の父、父なる神様がおられます。さらに、イエス様が長子の立場にいて下っています。
「それは、御子を多くの兄弟の中で長子とならせるためであった。」
(ローマ人への手紙8章29節 p.244)
それゆえに私たちは、互いに赦し合い、忠告し合い、祈り合うことができるのです。 私たちの歩みは、完全でもなく、丸太を取っていただいたとはいえ、私たちの目の中に繰り返しちりが入り込んだり、目が曇ってしまうことがあります。しかし、そのようなときも私たちの最大の丸太、「罪」を取り除いて下さった十字架の主を仰ぎ見ましょう。そして、「弟子は、…その師のようになろう。」「あなたは私のようになるだろう」との主の言葉を思い起こしましょう。
結論)
イエス様を信じ、従う者の内に、聖霊によってイエス様が住んで下さいます。そして、主は私たちをきよめ、良い実(43-44)、聖霊の実を結ばせて下さいます。
「しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制で
あって、これらを否定する律法はない。」 (ガラテヤ5章22-23節 p.299)
そして、霊の目を開かれた私たちは、人々を真の道であられるイエス・キリストへ道案内、手引きをする役目も与えられています。主イエスを仰ぎ見、このお方を証ししてまいりましょう。