ルカによる福音書7章11~17節

主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。                 ルカ7章13節

 イエス様が弟子たちや大ぜいの群衆と共にカペナウムからナインという町の門に近づかれた時、一人のやもめ(夫を亡くした女性)の一人息子の葬列が町の外に出て行くところに出会われました(11-12)。それを見られたイエス様は…

本 論)A.母親をあわれまれた
 「大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。」(12)とありますように、この葬列に同行していた人々は彼女を少しでも慰めたいと思っていました。しかし、悲嘆にくれる彼女には慰めの言葉のかけようもなかったことでしょう。
この葬列と出会い、絶望の涙を流している母親を見られたイエス様は、あわれに思い、「もう泣かなくともよい。」(13新共同訳)と言われました。「深い同情を寄せる」(13)(新共同訳聖書では「あわれに思う」)という言葉には「内臓」という意味を持つ言葉が用いられています。この憐れみは、「はらわたのよじれるような」、「内臓が痛むような」憐れみです。ルカによる福音書では、よきサマリヤ人のたとえ(10章30-37節p.106)の「彼を見て気の毒に思い」(33)と放蕩息子のたとえ(15章11-32節 p.115)の父親が「哀れに思って」(20)のところに原語で同じ言葉が使われています。父なる神様とイエス様が私たちを憐れんで下さる。これが聖書に一貫して流れているメッセージです。
息子の死を激しく嘆き悲しんでいるこの母親を見てイエス様は、ご自分の内臓をえぐられるような同情、憐れみを覚えられたのです。夫に先立たれ、また息子まで亡くした彼女をかわいそうに思われ、なんとかしてやりたいと願われました。「深い同情を寄せられる」「あわれまれる」という言葉には母親と死んだ若者に対する深い愛情が込められています。そして、「もう泣かなくともよい。」と仰いました。主イエスは、ここで彼女に、「あなたは今絶望の中で泣いているが、しかし、もう泣き続けなくてよいのだ。泣くのはこれで終わりだ」という意味を込めておっしゃられました。それは、この息子が生き返ることで、死の問題が解決され、もう泣く理由がなくなるので、このように言われたのです。
そう言われてから近寄って棺に手をかけられました。(当時のユダヤの「棺」は箱や桶ではなく、担架のような一枚の板でした。)律法の定めによるなら、棺に手を触れることは自分の身を汚すことであると承知の上でのことです。棺をかついでいた人たちは主イエスの権威に圧倒されて立ち止まらざるを得ませんでした。

B.若者をよみがえらせて下さった
   改革者のマルティン・ルターは、「霊的に見るならば、この世のすべては死んでいる。しかし、それが感じ取られていないのである。」と言っています。聖書は、肉体の死だけでなく、霊的な死があることを告げます。それでは霊的な死とは何でしょうか。人間は本来、神様と人格的に交流して生きるように創造されています。これは動物と人間を分ける決定的な違いです。ところが人間は神様と交流する部分が活用されない状態になっています。これを神様に対して死んだ状態、霊的死と呼ぶのです。そして、その原因は人が神から離れたことによるのであり、それが罪なのです。しかし、イエス様は、神と断絶状態にある私たちを再び神様のもとにつなぐために来て下さったのです。
葬列とナインの町の人々は、神様から離れた(霊的死の)状態になっている全人類の象徴でした。イエス様が、葬列を止められたことは、後に、十字架の死と復活によって人間を罪と死から救って下さることを示していました。
イエス様は、「若者よ、さあ、起きなさい」と力強く言われました(12)。するとその言葉通り、若者は起き上がってものを言い始めました。主イエスが彼を母親に返されたとき、彼女はどれほど喜んだことでしょうか。周りの人たちも共に喜びました。葬列は解散し、神様をおそれ、賛美するイエス様の列に加わりました。
この若者をよみがえらせたイエス様は、最後には捕らえられ十字架にかかられて死なれました。死んだ人たちをよみがえらせたのに、ご自分は殺されてしまったのです。しかし、まさにそこに、私たちを解放しようとされる神様のあわれみがあったのです。主イエスが十字架で死なれたのは、一つには私たちの罪を全て引き受け、背負ってそれを赦して下さるためです。もう一つは、いつか必ず死に支配され、命を奪われてしまう、その私たちの苦しみと悲しみ、絶望を引き受け、背負って下さるためです。私たちがいつかは体験する死の支配を、イエス様も体験して下さったのです。そして父なる神様は、イエス様を三日目に復活させられました。(「起きなさい」の「起き上がる」という原語は、主イエスがよみがえられたときにも同じように用いられています)神様が、イエス様に新しい命を与え、生かして下さったのです。そのことによって、神様は、私たちを最終的に支配するのは死の力ではなく、私たちを死の支配から解放し、新しい命を与えて下さる恵みの力なのだということを示して下さいました。

結論)
   この若者も、後に地上の生涯を終えました。私たちもいつかは地上の生涯を終えるときが来ます。肉体の死が私たちを捕らえ支配することは厳然たる事実です。しかし、その支配の現実の中に、イエス様の「もう泣かなくともよい」というみ言葉が響くのです。 「わたしはよみがえりであり命である。わたしを信じる者はたとい死んでも生きる。また生きていて、わたしを信じる者はいつまでも死なない。あなたはこれを信じるか。」(ヨハネによる福音書11章25-26節 p.158)
イエス様を信じる私たちが向かうのは死の力が支配する死者の国ではありません。父なる神様の恵みのご支配するところに、イエス様は私たちを導いて下さいます。そして世の終わりのときには「わたしはあなたに言う。起きなさい。」というイエス様のみ言葉によって、死に捕らえられた私たちが、眠りから目覚めさせられるように復活して新しい命を与えられるのです。
この主イエスと共に生きているがゆえに、私たちはこの地上の人生を天の御国を目指しつつ平安の中に歩むことができるのです。