「それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。ただ、お言葉を下さい。そして、わたしの僕をなおしてください。」 ルカ7章7節
イエス様は、ガリラヤにおける活動の拠点としていたカペナウムの町に戻られ、そこで働きを進められました。この町にいたある百卒長から主イエスのもとに使いが来ます。彼は…
本 論)A.イエス様に助けを求める
異邦人である百卒長がユダヤ人の長老たちを、イエス様のもとに使いとして送ってきたのです。彼の僕が病気で死にそうな状態でした。彼は大切な僕を何とか助けたいと思って、当時評判になっていたイエス様の御力にすがろうとしたのです。そのために、ユダヤ人の長老たちに頼んで口添えをしてもらったのです。長老たちも喜んでその頼みを引き受けたことが、4、5節からわかります。彼の願いを聞いてくれるように、長老たちはイエス様に熱心に願いました。なぜなら、彼は、彼らのためにこの町に会堂を建てるほど、彼らを愛し、真の神様を礼拝する彼らの信仰を深く理解していたからです。
彼はイエス様こそ人を本当に救う力を持っている御方だと信じていました。この僕を救うことができるのはこの方しかいないと確信していました。それでイエス様に「助け に来て下さいと願ったのです。
今も、イエス様は、「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。…」(マタイによる福音書11章28節p.16)と私たちに呼びかけ、招いておられます。私たちも、今、ここでイエス様のもとに行き、祈り、助けを求めることができるのです。
B.み言葉の権威と主の力に信頼する
ところが、百卒長は友人を使いにやってイエス様にこう言います。「主よ、どうぞ、ご足労くださいませんようにわたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。 それですから、自分でお迎えにあがるねうちさえないと思っていたのです。」(6-7節) なぜ彼は先ほどは「助けに来てください」と願ったのに、今になって「来なくていいです」と言ったのでしょうか。
まもなくイエス様がやって来られると思うにつれて、彼は自分は、神から選ばれたユダヤ人ではなく、神から遠く離れた異邦人であり、自分には主イエスをお迎えする資格はないとますます感じるようになりました。それで、自分からは出向くことができず、友人を使いにやりました。
私たちもこのときの百卒長のように、自分自身のことを吟味すればするほど、自分は、神様の御前に立てるような者ではない、イエス様の御前に近づくことができるような者ではないと、自分が神の前に罪ある者、ふさわしくない者であると感じます。
しかし、イエス様は、彼の神の前にへりくだる姿と、その言葉に感心されました。(7-8節)百卒長が挙げたのは、自分が属している軍隊の権威です。軍隊では上官の命令は絶対です。上が命令すれば、下がその命令通り動きます。そうでなければ軍隊の規律が守れません。兵の命も危険にさらすことになります。言われたらその通りにする。それが軍隊の権威です。彼は軍隊に身を置いていたから、このことをよく知っていました。そして軍隊の権威でさえもそうなのだから、まして神の権威は絶対であると信じました。
神の御子イエス様が言われれば、必ずその通りになると信じていました。彼は、このように信じたので「ただ、お言葉を下さい。」イエス様、あなたのお言葉を下さい、あなたが私の僕の病が良くなると言って下さったら、必ずそうなります、とイエス様のお言葉を御前にひれ伏すごとくに待ったのでした。
イエス様は百卒長の言葉と信仰に非常に感心されました。彼はユダヤ人から見れば、外国人(異邦人)でした。異邦人は、本来ならば神の救いの圏外にいる者たちだと考えられていたのです。しかし、イエス様によって彼の信仰が見い出されました。彼は、自分は主をお迎えするのにふさわしくない、神の前に誇るべき何ものもない、そのようにへりくだりました。また、僕のいやしのために手だてを尽くして、もう何もすることができない、最後にイエス様に望みをかけてただ神の言葉を求めました。そのような信仰をイエス様は認めて下さいました。自分がふさわくない者であることを認め、そうであればなおさら神の言葉を求めることこそ、信仰者の姿です。彼は主のみ言葉の権威と力を信頼することに活路を見出しました。そしてこの活路は、彼が発見したというよりも、主イエス・キリストが開いて下さった道です。イエス様は、神様の御前にでることができない、救いにあずかるのにふさわしくない私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエスの十字架によって、救いにふさわしくない私たちの救いが、神様の恵みによって実現し、今、与えられています。イエス様のみ言葉はその救いを告げるものです。そのみ言葉に罪人を救う力と権威があるのは、主イエスの十字架と復活によって裏付けられた言葉だからです。
結論)イエス様の十字架の死と復活による救いを告げ知らされている私たちはそれを告げるみ言葉の持つ権威と力をこの百卒長以上にはっきりと知ることができます。そのみ言葉の権威と力にこそ、罪人である私たちが、それでもなお、イエス様の救いを求め、それにあずかっていく道が開かれているのです。
イエス様の十字架は、私たちを愛しておられる神様の最大の愛と力のあらわれです。主イエスを信じ、心に受け入れて、さらにみ言葉を求め、新たにされて歩みましょう。
「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ
去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」
(コリント人への第二の手紙 5章17節 p.282)