しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。
ルカ6章27-28節
「平地の説教」の中で、「幸いな者」について語られたイエス様は、さらに「聞いているあなた方に言う。」と仰られ、さらに敵を愛し、あわれみ、さばかないようにと繰り返して語っていかれます。
本 論)A.敵を愛し、祝福し、祈りなさい
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人にもそのとおりにせよ」(31)は「黄金律」と言われています。ここで「人にもそうしなさい」は「敵を愛しなさい」という文脈の中にあります。ゆえに「そうしなさい」は「愛しなさい」、「敵をも愛しなさい」という意味です。それで「人にしてもらいたいこと」は同じように愛されることです。イエス様がここで言われている黄金律の意味はあながたは愛されることを願っている、だからあなたがた も人を愛しなさいと言われます。
私たちは愛し、愛されるために神様に造られました。神を愛し、隣人を自分のように愛する。そして人を愛するということは、人から愛されることにもなります。このよう な愛の交わりの中に置かれ、生きるために私たちは造られました。しかし「敵を愛し、憎む者に親切にせよ。」というイエス様の教えは、私たちがこれを実行できるような立派な、寛容な人間になれ、というただの倫理的な教えとして読んでいる限りは心の重荷と負担でしかありません。何よりもまず、神様に敵対していた私を愛しその自分のために十字架にかかって死んで下さった神様の独り子イエス・キリストの愛を知ることです。
この主イエスの教えは、イエス様の愛を知った多くの信仰者を生かし、この教えに従って生きる幸いな人々を生み出してきました。それは彼らが、自分を愛して下さるイエス・キリストと出会ったからです。彼らは、この教えを単なる道徳の教えとしてではなく、十字架の主イエスの真実の幸いへの招きの言葉として聞きました。
私たちもイエス様を信じ、神の子とされて生きる本当の喜びを知りました。そして、私たちの救いを実現して下さったイエス様に従って歩むことにこそ、憎しみが憎しみを、復讐が復讐を生んでそれが際限なく増幅されていく、人間世界の悪循環を断ち切る唯一の道であることを示されたのです。
このみ言葉を実践し、生き抜いた人々の中の一人が、米国のマーティン・ルーサー・キング牧師です。(1929-1968年)キング牧師はバプテスト派の教会の牧師としてその務めに就き、黒人の人種差別と闘いました。非暴力を貫いた人でした。キング牧師と、彼と共に生きていた教会の人たちにとって、敵を愛しなさいという言葉に従うことは本当に厳しい道だったと思われます。黒人に対して容赦なく攻撃を仕掛けて来る者たち、暴力を振るう者たちがいました。目に見える具体的な敵がいたのです。
キング牧師は「敵を愛しなさい」という題の説教の中で何度も「悪の連鎖」という言葉を使っています。やられたらやり返す。これが悪の連鎖です。これが私たちの世界の現実です。しかし、それではだめだとキング牧師は言いました。どこかでこの連鎖が断ち切られなくてはならない。私たちから始めようとキング牧師は呼びかけました。実は始まりは人間からではありません。すでに神様が悪の連鎖を断ち切って下さっています。まず、神様が敵である私たちを愛して下さいました。
B. 主のご愛を内にいただいて
イエス様は、父なる神様が慈悲深い方だと言われます。「いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ深いからである。 あなたがたの父なる神が慈悲深いように、あなたがたも慈悲深い者となれ。」(35~36節) 神様は、誰に対しても、敵に対しても憐れみ深いお方です。神様は悪に対して愛と赦しをもって返され、悪の連鎖を断ち切って下さいました。それが、イエス・キリストの十字架です。神ご自身が痛みをもって、私たちの悪と罪を赦して下さいました。「敵を愛しなさい。」イエス様は、この言葉を単に語られただけでなく、実際にその身をもって、この言葉を実行して下さいました。
「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたち
の罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛があ
る。」 (ヨハネの第一の手紙4章10節 p.380)
「ここ」はキリストの十字架です。キリストの十字架に神様の御愛が現れています。私たちが互いに愛し合うことができ、敵をも愛する愛をいただくことができるのも、ま ず神が私たちを愛して下さったからです。自分を憎み、十字架につける人々のために
「父よ、彼らをおゆるしください。彼ら何をしているのか自分でもわからずにいるの
です。」(ルカによる福音書23章34節 p.131)
と罪の赦しを祈られました。私たちも、主イエスのご愛をいただいて主イエスの祈りに心を合わせて祈ること、それこそが、いと高き者の子、神の子とされて生きることなのです。
(結論)
私たちは、主イエス十字架に顕わされた神様の愛の広さ、深さ、高さをさらに知っていきましょう。イエス様を信じ、従っていこうとする者には、愛し、赦すことができる力の源、聖霊が内に与えられています。私たちは主に赦された分だけ、人を赦すことができ、愛された分だけ愛することができるのです。祈りと聖書のみ言葉を通して、父なる神様とイエス様のご愛をさらに示され、主に愛されている者して生きてまいりましょう。