そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、
「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。…」 ルカ6章20節
イエス様が山の上で十二人の使徒たちを選ばれた後、山から降りて来られました。そして、「平地に立たれ」(17)ました。そこには、十二人以外の弟子たちとたくさんの民衆がいました。イエス様は病人や汚れた霊に悩まされていた人々も癒されます。そして目を上げて弟子たちを見て語られます。
本 論)A.幸いと不幸
マタイによる福音書の「山上の説教」の中では、「八つのさいわい」について語られています。(マタイ5章1~12節 p.5) ルカによる福音書の「平地の説教」では、四つの「さいわい」と四つの「わざわい」が語られています。この説教で「あなたがた」と言われているのは、弟子たちです。ここでは、イエス様を信じて従っている弟子たちが、その歩みにおいて「さいわいである」場合と「わざわいである」場合とに分かれるということが語られているのです。経済的に貧しい人は幸いだけれども、富んでいる人は不幸だ、と単純に言われているわけではありません。そのことは、貧しい人々に対して、「神の国はあなたがたのものである。」と語られていることからもわかります。そしてマタイによる福音書では、「こころの貧しい人たちは、さいわいである。」(5章4節)と言われています。ルカ6章20節の「貧しい人たち」も「心の貧しい人たち」すなわち、霊的な飢え渇きを覚える人たち、ただ神にのみより頼む人たちのことです。心の貧しい人々が幸いであるのは、神の国、つまり神様のご支配が彼らに与えられており、彼らが神様のご支配の中を生きているからです。それは、イエス様を信じて歩む者に与えられる幸いです。
一方、富んでいる人が「わざわいである」と言われているのはなぜでしょうか。「慰めを受けてしまっているからである」とあります。経済的に豊かであることによってすでに慰めを受けてしまっている、それが「わざわい(不幸)」だと言われます。この「受けてしまっている」という言葉は、既に十分に受けており、これ以上はいらない、という意味です。神様からの慰めをいただかなくても、自分の持っているもの、財産で十分な慰めがある、とそれで安心してしまっているのです。それは、言い換えれば、自分の持ち物、財産に依り頼んで生きていることです。信仰者がそうなってしまったら、もう信仰を持っている意味がありません。信仰とは、神様にこそ依り頼み、信頼して、神様からの慰めをいただいて生きることだからです。その神様からの慰めを求めなくなった信仰者は不幸です。その人が神様を見失い、この世のことしか目に入らなくなるとき、私たちはこの世の事柄、例えばお金や地位や名誉などに捕われ、束縛されてその奴隷になってしまいます。逆に貧しさの中でもひたすら神様の慰め、守りと導きを求めるところにこそ、この世の事柄からの自由が、束縛からの解放が与えられます。
B. 現在と将来
さらにイエス様は、「いま飢えている人たち」「いま泣いている人たち」(21節)と「今満腹している人たち」今笑っている人たち」(25節)を対応させて語られました。今はこうであることが将来には逆転すると言われ、「今」を生きている人々に「将来」を見つめさせようとしておられるのです。将来を見つめることによってこそ、本当の幸いと不幸とは何かが示されます。今の現実のみを見つめているならば、富んでおり、満腹になり、笑っている人たちこそ幸いに思えます。しかし、将来を見つめるならば、心貧しく、義に飢えており、自分の罪に泣いている人こそが幸いだと言えるのです。その「将来」は、私たちの地上の人生が終わった後のことです。そのことは、第四の幸いと不幸について語っておられる23節に「天においてあなたがたの受ける報いは大きい」と語られていることからも分かります。この世の人生が終わり、天において、神様のみ前に立つときに、神様が報いて下さるのです。今の心の貧しさ、義への飢え渇き、罪に対する悲しみが満腹と笑いに変えられるのです。22節と26節では、人々に憎まれることとほめられることが対照になっています。それは自分の罪によって憎まれたり、自分の業績によってほめられることではありません。憎まれるとは、人の子、主イエス・キリストを信じる信仰に生き、それを貫くために人々にののしられ、共同体から追い出され、汚名を着せられることです。「人が皆あなたがたをほめるとき」(26節)は、イエス様を信じる信仰を曖昧にして、人々に迎合し、神様のみ心に従うよりも人々が喜ぶような生き方をすること、そのことによって人々からほめられるときです。信仰を貫いて生きるならば、人々に憎まれ、追い出され、ののしられ、汚名を着せられ、場合によっては殺されてしまうかもしれません。しかし、そのときあなたがたは幸いだと主イエスはおっしゃいます。それはこの世の人生と命を超えて私たちを支配し、導き、天において大きな報いを与えて下さる神様がおられるからです。神様の目に見えないご支配に委ね、神様との交わりに生きるところに信仰者の幸いがあります。
(結論)
これらの「さいわい」と「わざわい」の教えにおいて、イエス様は弟子たちに、そして私たちに、この世の人生の終わりである死をも超えてその先まで私たちを支配し、導き、報いを与えて下さる神様を信頼して生きる本当の幸いを与えようとしておられます。この幸いを与えるために、イエス様は人の子としてこの世に来て下さり、人々に憎まれ、ののしられ、汚名を着せられ、この世から追い出されて十字架で死なれました。
イエス様の苦しみと十字架の死と復活によって私たちは罪赦され、神様の前にはばかることなく近づくことができるようになったのです。私たちは御国に希望を置いて、今のこの地上の人生を主イエス・キリストを信じる者として歩むことができるのです。